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DIARY(2002年11月)

2002年11月30日(土)
パリ公演の2日目。
午後から会場入りし、またも少ない割り当て時間を「011-DOT」の照明と音の関係、「012-RAG」のギターの音質調整に当てる。
昨日と同じ上演順で本番。今日も大入り。
僕の公演では、前日より笑い声は少なめ。でも「012-RAG」では僕が退場し、スカンクがまだギターを弾いている時点から拍手が起こる。
正直反応はどうだったのかなと思いつつ、今日も終演後のカクテルパーティ。
机の上に並べた過去の公演のフライヤーがあっという間に掃けていく。
更にこちらがアクションを起こさずとも、次々に話し掛けてきてくれる人々。何とサイン待ちの人達が並んでいる。
フランス、イタリア、イギリス等4〜5人のプロデューサーからも結構具体的なアプローチを貰う。
今回は勿論一般の観客も入っている公演でありその視点は忘れてはいないが、このようなショーケースでは次の展開への出会いを見つける事が肝要。
その意味で、大成功と言えるパリ公演と思う。この企画をし、我々を誘ってくれた「Hi!wood」の高樹さん、根木山さんに強く感謝。
8年ほど前に日本の雑誌に僕の公演記事を執筆してくれ、今はパリで自分の詩や美術の活動をされている山口拓実さん、ベルギーを拠点に活躍されているダンサーの日玉皓史さん、神奈川県文化財団の佐藤まいみさんらと再会し歓談。
海外に行くと僕らは「アーティスト」という職業の人間として社会的に扱われる関係で暮らす事が多い。この事は日本では体験しがたい。
国内では一般的には一部を除き「アーティスト」は「プータロー」とほぼ同義だし、この環境の違いは大きい。
そして確かにある種の快感はある。陳腐な言い方だが存在価値の届く範囲の広い感じ。
多くの人々が、日本から海外に出ていく理由がここ数年よくわかってきた。
しかし僕は、日本(地元東京?)に何故かこだわりがあるし、「アート」が「アート」として成立する事によって「アート」が棚上げされてしまう危機感もある。 などど考えつつ、約40日に渡った多くのトラブルと多くの充実感と次への展開を繋げた欧州滞在は今日で終わる。
2002年11月29日(金)
パリ公演の初日。
開演までの時間から全体の仕込み時間を引いた残りを4組で割る為、今日も舞台を使って詳しい作品の詰めをする時間は非常に少ない。約1時間。
まず昨日、宿題として残った「011-DOT」を音と明かりで試す。進展。
急いでゲネプロ開始。ケーブルTV局の撮影も入っている。
今度は「012-RAG」のギターとの関係がうまくいかない。途中で何度も動きを止め、叫んで指示。
最終的にぶっつけ本番的になろうとも、こういう時は無理矢理最後まで通すより、問題を明らかにしておいた方が良い。
別室のレセプションルームで身体を動かした後、本番の時間を迎える。大入り。
「ニブロール」「丹野賢一/NUMBERING MACHINE」「珍しいキノコ舞踊団」「砂連尾理+寺田みさこ」の順で上演。
僕はニブロールの皆様の上演後の転換・休憩の時間の後半5分に「011-DOT」のビデオを流させて貰う。
その後、本編開始。
「011-DOT」、過去の公演のダイジェストのビデオ、「012-RAG」の順で上演。
これまでの課題は相当に克服した形で提出出来る。
「011-DOT」の前半から笑い声が客席から起こる。
ダイジェストのビデオで赤い水のなかで僕がのたうちまわっている映像辺り以降では、それは非常に大きくなる。
別に笑いを特別に狙っている訳ではないが、劇場だからといってかしこまって演目を観るだけが能じゃない。
笑ったって、踊ったって、叫んだってよい筈だ。スイスのライブハウスのように、煙草吸ったって、ビール飲んだって。
でもここまで本番中の直接的な反応は、アメリカ公演以来だろうか。
一概には否定するものではないが、日本やドイツでは、起こりづらい事だ。
良い感じで客席も弛緩した後、「012-RAG」で締める。
3時間に渡る公演が、夜11時30分頃に終了し、観客を含めたカクテルパーティをロビーで。
オーストリアのフェスティバルプロデューサーが非常に関心を示してくれる。
現在こちらに留学されているという「解体社」の制作の秦さん、昨年の公演に制作スタッフとして参加してくれた吉田菜都子さんと、こんなところでと驚きの再会。
日本文化会館の若手スタッフとも話し、パリの船の中や廃駅を利用したクラブなどの情報を得る。
2002年11月28日(木)
2時に会場入り。用意してもらった会館の5階にある部屋で、僕は身体をほぐす、スカンクはギターの練習。
17時30分から劇場に入り、「珍しいキノコ舞踊団」の伊藤千枝さんらと再会。 彼女らと入れ替わりで、僕らのリハーサルを開始。
1日に4組が上演する為、一組あたりの時間が少ない。僕らは1時間30分しかない。
まずは「011-DOT」の明かりを見せて貰い、音と合わせてみる。正直課題が多く残る。
今回はこの企画全体の照明の方が担当するので、僕とは初めての作品作りだ。その割には時間が余りにもない。
何回か繰り返している内に時間はあっという間に経過していく。
結局、「012-RAG」まで手が回らず、通してのリハーサルは出来ずに終わる。
今度は矢内原美邦さんら「ニブロール」の皆と再会。彼女らのリハーサルと交代する。
ここでは人々の作業が日本に比べると非常にゆっくりしている上、一旦決めたスケジュールには頑固で、融通が効きづらい。おまけに各所に通訳を介しての仕事だ。
また、出演する4組の舞台設定や美術が皆異なる為、1組毎に転換をしなければならないのも拍車を掛けている。
夜、ホテルのロビーで舞台監督の原口さんらと明日のスケジュールを打ち合わせ。
2002年11月27日(水)
11時に劇場入り。劇場のロビーに入るも鍵が閉まっている。
どうやら舞台裏に回って入らねばならなかったらしい。暗いロビー内に閉じ込められる。
ここは各所がオートロック化されていて、入れても出られない、出れても入れない扉が数多くある。あちこちの扉をノックするが開かない・・・
上への階段を発見。どこに繋がっているのか定かでないし、全員で出るとまた行き場を失うかもしれないので、一人が扉の向こうに。
無事、中から鍵を開ける事に成功。数十分振りに明かりの点る場所へ。
劇場内では既に照明の吊り込みなどの作業が始まっている。
今朝パリに着いた砂連尾さん、寺田さんと10月のJCDN「踊りに行くぜ!!」前橋公演以来の再会。
彼等とは5月のペヨトル工房の京大西部講堂でのイベントでも一緒だったので、今年は同じ企画に出るのは3回目。
夕方からビデオプロジェクターの配線とサウンドチェック。
スピーカーから出てしまうノイズの処置に難儀。
夜から予定していたリハーサルは、全体的に作業の進行が押している為、出演4組とも明日に行う事に。
照明のシュート作業を見つつ、自分の作品に使用される照明の打ち合わせを森島さん、高橋さんと。
スカンクは開いた時間をホテル内や楽屋での「012-RAG」のギターの練習を続ける。
この所新作中心の上演が続いていたので、これからの3ヶ国での演目「011-DOT」「012-RAG」はポーランド以来だ。
2002年11月26日(火)
早朝6時過ぎに宿を発ち、長距離バスが集うビクトリアコーチステーションへ。8時発のパリ行きのバス「EUROLINE」へ乗り込む。
飛行機より重量のある荷物の持ち込みも問題ないし、セキュリティーチェックもないから気分が非常に楽。
時間も確かにかかりはするが、結局飛行機は受付や荷物の受け渡しに相当かかるし、飛行場が市街地から遠く離れているケースも多々あるから、この不可抗力で起きたバス移動は意外に相当良かったかも。
ドーバー海峡をバスごとコンテナに乗せられ、列車に牽引されて(そんな感じらしい。僕はすっかり熟睡していていつイギリスを出たのかも知らず)国境を越える。
途中バスの整備不良か車両の乗り換えもあったものの、予定より1時間は早くパリへ到着。
荷物が多い為、バスの発着場でタクシーを探すが一台もいない。
乗り場で待っていると、フランス語で話しかけてくる男。25ユーロで連れていくと言ってくる。
高いのかもしれないが、待っていても時間が勿体無いし乗る事にする。車まで行くと案の定「白タク」。
乗用車にぎゅうぎゅうに荷物を詰め、指定のホテルへ。
以外と距離がある。最初に値段を設定しているし、景色からも遠回りはされていない。これ若しかして凄く安かったかも。怪しんでごめん、白タクの運転手さん。
エッフェル塔のすぐそばのホテルにチェックイン、荷物を置き、これまた徒歩1分といった近さの公演会場「日本文化会館」へ。
日本文化会館のスタッフと挨拶をしていると、ほどなく舞台監督の原口さん、音響の伊東さん、照明の高橋さん、「ニブロール」の映像の高橋さん、「珍しいキノコ舞踊団」の美術の「生意気」のメンバーの方も到着。
彼等の便は変更なく飛んだとの事。軽く明日からの打ち合わせを。
本当は明日は砂連尾さん+寺田さんのリハ予定だったのだが、彼等の便は延期になり到着は明日の朝4時との事。
そのままリハではきついだろうし、僕らが先にリハをやらせて貰う事になるかもしれない。 ホテルでこの日記を書いた後、風呂に。実はイギリス以降はシャワーしかなく、1ヶ月振りの湯舟。
2002年11月25日(月)
ロンドンの劇場との打ち合わせは夕方からに。
となれば、余った時間はお気に入りのカムデンタウンへという訳で、一人で地下鉄に乗り出かける。
ロンドンの地下鉄は東京のそれと酷似しているので、非常に理解しやすい。
公演が無い為、精神的な余裕もあるので余計に。
大きな乗り換え駅で道行く人が経路を探して立ち止まっているのを横目にすいすいと移動して、すっかり気分はロンドンっ子。
昨日とはまた違う経路でカムデンタウンに無事到着。またも新たな僕好みの店を何軒も発見。シャツとバックをまたも購入。大はまり・・・
一旦宿に戻ってから、4日前にスイスで別れイギリスに帰国していた大見謝と再会。彼女の案内で、ロンドンの劇場「ICA」へ。
ここは映画館が2つ、ギャラリーが4つ、シアターが1つ、更に他にもカフェや会場があるこぎれいな複合施設。
インディペンデントの企画が随分と上演されている場所との事。場所もロンドンの中心地。
ディレクターのビビアンと打ち合わせ。ここでも舞踏に関する話題が。
5月頃に日本のアーティストを呼んでの企画を考えているらしい。
シアターは、キャパ150か200位の丁度良い広さ。ここなら様々な種類の公演が出来そうだ。
劇場を出て、インターネットカフェへ。ここで、パリへの移動手段を考えねばならない。
大見謝の活躍で方法が幾つか見つかる中、現状で早く且つ安く移動出来るのはバス移動と判明。早速切符を確保。
ピザ屋で大見謝とこのツアーでは本当に最後の食事をし、見送り。
我々はロンドン最後の夜をSOHO地区の繁華街を散策して過ごす。
2002年11月24日(日)
やっぱり一回は行っとかなきゃと、パンク発祥の地、キングスロードへ。地下鉄を乗り継ぎ到着。
ところが街のテイストは至って健全でそんな匂いは皆無。
これは探し方が悪いのか、竹の子族発祥の地原宿で「竹の子」という店を探すような針の穴に糸を通すかのような作業なのか。
最早「PUNKS IS DEAD」???
これは俺達の街じゃないと、またも地下鉄を乗り継ぎカムデンタウンに移動。やっぱりここだ。
サイバー系の店の服は高くて手が出ず悔しい思い。外の古着屋で赤いモヘアのセーターを購入。
夜、インターネットカフェでメールチェック。
するとeasy jetから26日に予約していたパリ行きの飛行機が、25日〜27日朝のパリの空港のストの為、飛べないとの連絡が。
27日には会場に入っていなければならない。対策を考える。
スカンクが弁髪を赤く染める。
2002年11月23日(土)
朝8時過ぎに、行きと同じ運転手さんの髑髏ワゴンに乗り、チューリッヒ空港に向け出発。
サンドロも徹夜で起きていてくれていて、お別れの挨拶。
帰国する村山、安部をチューリッヒ空港で見送る。
残ったのは、僕とスカンク、松本の3人。このメンバーで今度は「東京コンテンポラリーダンス2002」でパリ、バンコク、ニューデリーを回る事になる。
パリ入りは26日の予定。それまでの時間をロンドンで過ごす事にする。
その理由は先月のカンタベリー公演の成果で、ロンドンの劇場を紹介して貰える事になったからだ。
ロンドン行きの便は夜。10時間程開いた時間をチューリッヒ市街で過ごす事に。
チューリッヒのメインストリートは我々などお呼びでないとの感じで高級店が並ぶ。
その道の行き着く先は売店が1軒あるだけの退屈な湖。
居場所を探してどんどん裏通りへ。
さっきの通りではベンチに座る人々。こっちの通りは地面に直接座る人々。街の感じもやや汚れてくる。
やっぱりこっちの方が居心地がずっと良い。
ここもベルン同様物価が高い。特に食事は。
安くても1500円はしてしまう店達を避け、マクドナルドで約900円のセットを腹に入れる。
食事なんてものに高い金額を払わねばならないと思うと腹が立ってくる。
街を散策しつくし、インターネットカフェで更に時間を潰す。
チューリッヒ空港からガトウィック空港へ飛行。
スイス、イギリス間はeasy jetを使ったので航空運賃は何と4000円位。
深夜1時頃にロンドンの宿に到着。
2002年11月22日(金)
今日もオフ。
昼過ぎから街を散策。
熊公園に行き、昨年は病的なまでに太っていて寝ているだけだった熊たちが、今年はやや痩せて動きが活発化している事を確認。
アーレ川沿いの道をのんびりと散歩後、部屋に戻ってデスクワーク。
夜は今日も階下の「Reitschule dachstock」へ。
まずはサンドロのDJタイム。
「ツァイトリッヒベルゲルダー」「デミセミクエーバー」「想い出波止場」「グランドゼロ」と日本の音楽が続く。
その後、「Acid Mothers Temple」のLIVEが開始。
2002年11月21日(木)
川口が日本へ帰国。大見謝もイギリスへ帰国。
今日はオフ。
そういえば、公演最終日の翌日が休みなのは初めて。
いつもは大慌てで大荷物のパッキングや、皆との別れの挨拶をしているのだが、異常なまでに落ち着いた時間。
昼からビールを飲み、のんびりと過ごす。
こんな日は何ヶ月振りだろう。日本にいると何かしらやる事が見つかるし。
丸一日部屋から出ずに、夜は「Reitschule dachstock」で行われるLIVEを観に。
今日のバンドのドラマーは羽野晶ニさんという日本人。
実は明日も「Acid Mothers Temple」という日本のバンドの出演で、3日続けての日本人ナイト。
終演後の片付けもこちらでは明日回しが多い。
現状復帰とかよりも、まずはアーティスト、スタッフ、観客が楽しく過ごす時間が大事。いいね。
深夜、まだ仕事の終わらないサンドロが休憩がてら我々の部屋にやってくる。
ウォッカを飲みながら、静かな会話。
昨日のパフォーマンスを気に入ってくれた事、観客が多く入って嬉しかった事、来年の我々の企画に関するアイデア・・・
スイスの大麻合法化以降、歯止めがなくなり、この会場の周辺にドラッグを売る黒人が多く居着き出している事が問題だと、サンドロはしきりに気にしている。
2002年11月20日(水)
スイス・ベルン公演の本番日。
音・照明のチェックを続ける。
ライブハウスだけに音量は相当出せる。場所も広い為、小劇場のような閉息感は生まれずらいし、観客が移動する事も可能。
小さい音ではこの場所に似つかわしくない。という訳で、普段よりも音を大きめにセッティング。
照明も今まで使用してきたタイプの灯体は無いのだが、代わりにムービングがある。新たなアイデアが続出。
9時開場。ここでは徐々に観客は集まってくるとの事。ショーの開始は最低でも9時45分までは待った方が良いと昨日サンドロに言われている。
開演までの時間は、これまで作ってきたビデオ映像を流しながら、スカンクがDJ風に演奏。既に踊り出している人達。
アドバイスの通り、徐々に人が増えてくる。椅子を運んで追加していくサンドロ。大入り。
10時開演。
「021-WRINKLE」「019-WRIST」「020-FRILL」「022-RIDERS」「023-SILVER」を上演。
オール新作での上演はここが初めて。
反応も多分欧州ツアー中でここかポーランドが一番。何度もコールで呼び戻され、最後はサービスで昨年ここで上演した「016-WALL」風に背面の壁にタックルして激突。
昨年はフェスティバルへの参加だったが、今年は単独の公演という事で心配していた動員だが、寧ろ今年の方がたくさんの人達が来てくれた。
今回のツアーに多大な協力をしてくれたイムレ・トールマンのお父さんが満面の笑みで握手を求めてくる
カメラマンのオットーに1年振りの再会。
8月の日本公演のフライヤーに使用した写真は皆、昨年この場所でのパフォーマンスを彼が撮影してくれたものだ。
ここ数年で出会ったカメラマンで、圧倒的に僕好みの写真を撮ってくれる。
「今年も良い写真がたくさん撮れた。丹野の公演で良い写真を撮る事は容易いよ。」と嬉しい事を言ってくれる。
また彼の話では、昨年の公演を観て今年も足を運んでくれたリピーターも非常に多かったとの事。
その事も自分の事のように喜んでくれている。
「アメリカ人やポーランド人ならばまだわかるが、日本人がこんなクレージーなパフォーマンスを行う事に皆驚いている」とも語っている。
「Reitschule dachstock」のメンバーと共に乾杯。
ステファニーやレイトとパフォーマンスについてや日本の文化について話す。
欧州で日本人が公演をすると、こちらがそのような説明や表記をしなくとも「BUTOH」と捉えられる事が多い。
が、オットーもステファニーも僕の公演は「BUTOH」とは違うと感じているらしく、僕が受けてきた影響や稽古の仕方などを尋ねてくる。
この会場でNUMBERING MACHINE単独のツアーは最後。会場、人々、内容等かなり良い感じの締めとなる。
今回の7人のメンバーでの最後の打ち上げを部屋で。
各場所でトラブルも少なくなくあったが、全ての会場で来年以降の展開が生まれてきている。その意味においては大成功だろう。
2002年11月19日(火)
昼過ぎから各種セッティングを開始。
ここ「Reitschule dachstock」はライブハウス。広さもあるし、劇場よりも気兼ねない空間が作れそう。
僕らの公演は視角の要素も勿論重要だし、オールスタンディングにして極僅かの人達しか、ステージが観れないという状況には出来ないが、こういう劇場とライブハウスの中間的な会場作りは国内でも挑戦したい所だ。
昼過ぎから音響の担当者のヤンらが来て、スカンクは演奏機材のセッティング。照明の吊り込みも開始。
夜は1階にあるレストランのスタッフのパーティに僕らも呼んでくれる。
出されたチーズフォンデュの味は絶品中の絶品。連夜の歓待を恐縮しながらも非常に嬉しく思う。
今回の欧州ツアーで真っ先に決まったのはこの会場だ。
ここが今年も僕らを呼んでくれなければ、ツアーの発展もなかった。
そのお礼と、僕らにとってここが非常にスペシャルな場所である事を、Reitschule dachstockのスタッフに告げる。
するとレイトは、僕らの催し物がほぼライブしか行われていないdachstockでは珍しくまた、自分達にとっても昨年の公演は共に作り上げたという印象が強く、共同の作業が成就し作品になるのが非常に嬉しかったと言ってくれる。
こういう関係で舞台が創造できる喜びを強く感じる。
作業に戻る。ステファニーは昨年と同じように鳶のように天井に這っている鉄筋に上って照明を吊り込む。
レイト達も朝2時位まで、一緒に作業。
川口は朝6時までムービングの設定を続ける。
2002年11月18日(月)
スイスへの移動日。
徹夜のままタクシーに乗り込み、テーゲル空港へ。スイス航空のカウンターでチェックイン・・・
をしていたのだが、カウンターの女の態度が最悪。
僕らの大量の荷物を見てあからさまに嫌そうな顔をするし、扱いもぞんざい、FRAGILEの札も貼りやしない。
別料金が必要ならばその用意があるのだから、ただそれを伝えてくればよい。
取り扱い注意の品も多いし抗議すると、今度はドイツ語を喋れと言ってきた挙げ句、このカウンターはビジネスクラス専用のカウンターだから向うに行けと、チェックの仕事をやめてしまう。お前が我々を呼んだカウンターだろが。
僕の語調も荒くなってくると、セキュリティーを電話で呼び寄せやがる。
その後も異常なまでに細かい中身や重量のチェックをされたり、一度OKされた手荷物を搭乗直前に同じ奴に阻止してきたり。
もう乗るのをやめると帰りかえると、そばにいた機長はこの荷物は問題ないとタラップに案内してくれる。不機嫌そうに黙り込むカウンターにもいた女。
席についても気分は最悪。スイス航空の全てのサービスは受けたくないと告げ、おしぼりを断ると、スチュワーデスが事情を聞いてくる。
説明すると、書類に詳しく書いて欲しいとの事。
この手の苦情はスチュワーデス達も良く聞いているのだが、正式な種類を書く人がいなく、改善できないという。
不得手な英語で文を書き、更に正確なものは帰国後作って送る事にする。
チューリッヒに到着。
空港まで迎えに来てくれた公演会場である「Reitschule dachstock」のボス、サンドロと1年振りの再会。
握手と抱擁を交わし、ようやく気分も晴れる。
サンドロが手配してくれた金髪モヒカンの運転手さんに案内され、髑髏マーク付きのいかにもバンドのツアー車といったワゴンに乗り込み、ベルンに向け出発。
会場に到着。ここでは「018-NET」の写真を使用したポストカードが出来ている。
荷物を置き、食事へ。異国だが、既知の街だと何か気分も落ち着きややホッとしている自分を発見。
昨年もそうではあったが、周辺国のユーロ導入の影響かより以上に物価が高い。マクドナルドのセットでさえ、1000円位してしまう。
ベルンは街がそう大きくないし、地元の人は殆ど食事は自宅に取りに帰るらしい。
レストランを利用する人間は、観光客だったり、休暇で食事でもしに繁華街へ出るかといった人が多いと昨年イムレに聞いた話を思い出す。
会場の上にある宿泊場所で仮眠を取った後、サンドロの家に夕食に招かれる。
昨年もいたレイトやステファニーとも再会。
サンドロは大の日本のアンダーグラウンドの音楽好き。僕ら以上に詳しいし、CDやレコードのライブラリーも豊富。
昨年約束していたCDを僕と村山と今年は日本に残っているじろからプレゼント。
大量のCDを積み上げ「クリスマスみたいだ」と喜んでくれる。御機嫌のサンドロのDJタイムが始まる。
その後、会場へ再移動。
本当は今日から仕込みを開始する予定だったのだが、急遽別のアーティストのシークレットライブが行われる事に。
今では売れっ子になり大会場でLIVEを行っているバンドが、久々に「Reitschule dachstock」で何かやりたいという事らしい。
深夜の終演後に、川口が機材等の打ち合わせをステファニーらと。
2002年11月17日(日)
ベルリン公演の8日目。2週間に渡ったロングランもいよいよ最終日。
余り街をぶらつけなかったので、昼は散策。
土・日曜日は閉まっている店が多いが、ウインドウ越しに、マスクショップやゴス系の洋服屋を眺めて、作品へのヒントを考える。
その後、ベルリンの壁があった場所へ。ここにはまだ壁が保存されている。高さ4メートルほどの壁には一面様々な絵が描かれている。
当時触れる事さえ許されなかった壁に人々が描いた絵だ。
絵自体は正直強い関心を持つものではないのだが、東側に描かれている絵と西側に描かれている絵の違いが興味深い。
西側はHIPHOP系のポップアート、東側は意味性が強い、(表現しづらいが)美術の時間に描かれそうな様相の絵。
当時の東西の文化の違いが偲ばれる。
夕方に劇場入り。
開演。今日も昨日に引き続き、観客数は多かったし、反応も良い。
正直、一週目のベルリン公演は動員も感触も厳しい部分が多々あったが、二週目は非常に充実した。
劇場内を片付けようとすると、ステファンが後は全部自分らでやるから、何もするなと言ってくる。
片付け出したら、本当に怒り出しそうな勢い。
観に来てくれた、ドイツ・ブルーリンを拠点に活動するミゼール花岡さんらと歓談。
明日は朝5時にスイスに向け出発だ。
朝まで一緒に残ってくれたマティアスらと話し込み、来年も公演の実現を約束。
車に乗り込んだ僕らを見ると素っ気無く帰っていくマティアス・・・
と思うとおもむろに走って戻ってきて、大きく手を振っている。
彼は最後まで役者魂で我々を微笑ませてくれた。
2002年11月16日(土)
ベルリン公演の7日目。
またも夕方に会場入り。スイスで上演予定の「020-FRILL」の照明をここの機材を使って試す。その後もフィルターの話と実験で盛り上がる。
本番直前。今日は大量の観客が押し寄せているらしい。
ロビーに入り切れない人達は、外で開場を待っているとの事。日本人の観客も数人いる。
上演終了。今日の手応えも良い。
「022-RIDERS」の後半の照明との関係が成長。全体的にもスピード感が非常にあった公演。カーテンコールで何回も舞台に呼び戻される。
パフォーマンス中に何度も頭をぶつけている為に出来ている瘤は、そのまた上に瘤が重なり相当隆起し、頭が変形してきた。冷やす。
近くのバーへ移動。最近はここの回線を借りて、メールチェックやHPの更新をしている。
作業後、川口と3月に東京で予定している、3年半振りの「もの」を使った公演の打ち合わせ。
内容、集団のあり方などの真剣な話が続く。
今日はこの後、ミランダのお勧めのクラブイベントに行く事に。
彼女の話では、ベルリンの「モストアンダーグラウンドピープル」が集まる「キッチュ」なイベントらしい。
今はフェンスになっている旧ベルリンの壁があった辺りを通過し、20分位徒歩で移動。
ところがある筈のクラブがない。
通りがかった人達に場所を聞くが、皆見つけられずに彷徨っているらしい。集団がどんどんと増えていく。
今日の場所は正規に運営しているのではない為、看板すら無いらしい。
ここだろうと思える鉄扉を発見。しかし施錠されていて入れない。
中にいる人間が開けようとしているが、扉は開かず。今日のイベントはこの場所探しと入る方法の解読かと思い出して暫く後、やっと鉄扉が開く。
会場は工場か倉庫跡に、簡素な照明とビデオプロジェクター、音響設備。
ここもまた箱があるという事態が先では無く、自分達で場所を作ってきたのだろう。
「ELECTORO CUTE」と「BOY FROM BRAZIL」という2バンドの出演。
共に打ち込みのカラオケに乗せて歌う、良い意味でチープな80年代風テクノ歌謡。
またも「ニューウェイヴ魂」を思い出し、楽しく過ごす。
2002年11月15日(金)
ベルリン公演の6日目。
いつものように夕方に会場入り、そして本番。
今日のパフォーマンス中の手応えは相当なものだ!!!!!!
終演直後楽屋にくるスタッフ皆が、開口一番その事を言い出す。確実に皆が共有した事態だ。
観客もいつもより多くロビーに残っている。しかし誰も我々に話し掛けてはこない。何故???
答えは単純だった。皆、ドイツ語しか話せなかったのだ。日本語は無論の事、取り敢えず我々が共通言語として使用する英語も。
昨日のマティアスの話通り、我々の公演のニュアンスと観客の嗜好が合致してきている、しかるべき層に届いてきている感を強くする。
その後、ベルリンでロケをした映像の編集作業をする村山をホテルに残し、他のメンバーはマグダが働いているSHOPへ。
10日行ったバーと同じ建物内にあるCD、レコード、書籍、グッズを集めたアートショップ。奥にはギャラリーも。
かかっている音楽もよいし、興味深いものが多数並んでいる。非常に触発される「FLORIA SIGISMONDE」という写真集を発見し購入。
その後、地下にある「DEAD CHICKENS」というアーティストのギャラリー「Monsterkabinett]へ。
「DEAD CHICKENS」のリーダー(?)のカイは日曜日に僕らの公演を観に来てくれた。
「023-SILVER」の時に身を乗り出していたらしい。
彼はいつも眠たそうな顔をしていて、髪も寝癖状態のようなボサボサ。
Monsterkabinettは多数の巨大な可動式モンスターが棲息する地下室。これは凄い!!!
モンスターは鉄製だったり、樹脂製だったり。動きは単純だが、硬質なコンプレッサーの稼動音、かかっている音楽、廃墟感のある場所、量、密度が合わさっていて、いつまででもここにいたい。
販売されていたポストカード全種類と、CD(彼等は音楽もやっている)を購入。
DEAD CHICKENSのHPは、
www.deadchickens.de
僕はこのHPはまだ見ていないので、どんな情報があるか知らないでの紹介は悪しからず。
取り敢えず、ベルリンへ行く人には大のお勧め!
ここは地理的には東京で言うと、原宿とか表参道とか代官山とかいう感じか。若しくは下北沢。
そんな場所にこんな場所が存在できるのだなあ。
僕も長年思っている自分の場所のを所有する事をやらなりゃな。
日本の地価の問題も相当にあるな。ORPHTEATERだって月1000ユーロの家賃だって言うし。
とか思いつつも、自分らのパフォーマンスの充実感も含め、そんな現実的な話はさておき欲求が先走る最高の一日!!!
2002年11月14日(木)
ベルリン公演の5日目。
一つ気になっていた事がある。
ORPHTEATERの入口がある薄暗い路地のような野外スペース。
非常に魅力的なのだが今回一切手をつけていない。
何とかこの場所をパフォーマンスの空間に出来ないかと思案。
マティアスも興味深そうにしている。
皆で、外でやる事の理由やその事によって持ってしまう意味、物理的な制約も含めた行う場合の方法などを論議。
エンディング映像の後に、短かめの「012-RAG」を外で行う案を試す事に。
鉄扉の開閉をチェックし、ライティングをセット。 が、実験してみるとどうもうまくいかない。終了のクールさが全く無くなってしまい、蛇足だ。
開場30分前まで試行錯誤するが、結局外でのパフォーマンスは残念だが断念する事にする。
日曜日と同じ構成で上演。
この所、各演目をややスピードアップする事を心掛けている。
上演を繰り返す内に、僕も音のスカンクも照明の川口も出来る事が個々においても関係においても増えてきている。
その対話やチャレンジは非常に面白いのだが、一方でその方向に振り過ぎるとスピード感は薄れる。
ロック的な疾走感は僕らの舞台に必要だ。
終演。今日は観客の集中力も強く感じたし、マティアスも非常に好反応だったし、皆帰りにポストカードを持っていっていたよと話す。
彼によると、演劇ではなくパフォーマンスである事が大分浸透してきるという事らしい。
ラジオで一日に20回程放送されているこの公演のインフォメーションでも「演劇ではなく、パフォーマンス」と繰り返しているらしい。
「演劇ではなく、パフォーマンス」この言葉がよく彼の口から出てくる。
無論マティアス自身には演劇とパフォーマンスの間の変な区分はない。しかし、ベルリンの観客へのアプローチの為には、カテゴリーをはっきりさせる事は相当重要な事のようだ。非常に強固なジャンルという定義。
公演を観、気に入ってくれ終演後も残ってくれたドローイング作家のナダも、ドイツは違うものや新しい動きを受け入れる姿勢は非常に少ないと語る。
子供の頃からドイツにいるが、ロンドンのような熱狂が好きと。
2002年11月13日(水)
フォトセッションの日。
ミランダの家で、皆はメイクアップ。いんちきアジア人が出来上がっていく。
ミラーボールが回転する赤い内装のバーに案内される。ここが今日の撮影場所。
マグダが本格的な照明機材を運び込み、ミランダは小道具等のセッティングを始める。
僕にはマフィアのボスの様なイメージを期待しているらしい。
サングラスをかけ、「020-FRILL」の衣装で女性をはべらし、深くソファーに座る。
その後は「014-SCAR」の衣装とメイクに姿を変える。
血糊を口から垂らしたり、ハイヒールで顔を踏まれたり。
ミランダとマグダの満足そうな笑顔で撮影終了。
その後、ORPHTEATERへ移動。
今日は彼等の作品を見せて貰う事になっているのだ。
ステファンが料理と架設のスクリーンのセッティングをてきぱきとこなす。
ORPHTEATERの演劇を5〜6作品観る。非常に面白い。
ドンキホーテやべケットなどの原作の演劇なのだが、その物語の意味よりも視覚的な要素や台詞を喋る声を含めた音からの刺激が大きい。
まあ、僕がドイツ語を理解出来ない事もより感覚的に捉えている原因ではあろうけど。
僕も舞台活動の始まりは演劇だった。
テクストによって生まれる演劇のある場面。その場面は現実化した時、テクストの持っていた意味以外の要素を孕んでくる。その部分への関心。
テクストなどの事前に想定した事項への奉仕ではない、現場の論理。意味は後から時間を共有した観客との関係によって生まれてくるものだ。
要約してしまっているが、そんな感覚が僕の現在のような作品の端緒だ。
ビデオを観ながら、自分の活動に関しての思考が巡る。
その後、マティアスやステファンと演劇とダンスやパフォーマンスとの関係、テキストの必要性などについて朝4時位まで話し込む。
2002年11月12日(火)
ミランダとマグダは部屋を共有している。
今日は食事に招いてくれるとの事で、彼女達の家へ。
トルコ料理とポーランドウォッカを食しながら、明日の撮影の打ち合わせ。
香港映画テイストの作品を作りたいらしい。
その為アジア人が必要なのかスタッフの皆もモデルになって欲しいらしい。
各々の意志を確認しつつ、皆で衣装のチェック。
スカンクは弁髪を脱色。
明日は僕には「014-SCAR」のメイクをとの要望。
正直どうなるか不明な点も多いのだが、自分の作品を一度他のアーティストに渡してみるという作業も興味深い。まあやってみよう。
ここでマグダにお願いして、電話回線を借りる。
実はベルリンに来てから、自分のコンピュータをネットに繋げる環境にする事が難しく、メールチェックもままならなかったのだ。
夜はたまったメールの返信作業に追われる。
2002年11月11日(月)
久々のオフ。
昼過ぎから、ユダヤ博物館に出かける。
空港のようなセキュリティーチェックを受け入館。
著明な建築家による、慰霊などの為に作られた強い意味性を持った建物なのだが、スケールの大きいアーティスティックな空間が幾つかある。
別行動していた松本と合流すると朗報が。
昨日終演後のロビーで、マティアスが2人の女性と話し込んでいたのだが、彼女らはフェスティバルのプロデューサーだったとの事。
彼女らは昨日の公演をいたく気に入ってくれたらしく、来年ベルリンで行われるフェスティバルに僕らを呼びたいと言ってくれているらしい。
遂にベルリンでも展開が生まれてきた。
軽やかな気分で、夜は「TEMPODROM」に「CURE」のライヴを観に。
ロバート・スミスは大の飛行機嫌いの為、日本では絶対に観れない貴重な機会だ。
会場には僕と同じような側頭部を刈り上げ髪を立てた人達がたくさん集結している。
根幹にある「ニューウェイブ魂」が盛り上がってくる。
僕は「パンク」といっても「パンク・ニューウェイブ」の人だからなあ。
開演前から漂う熱気と観客自体が楽しむ姿勢にこちらも高揚してくる。
この雰囲気が自分の舞台でも作れないか、その為の戦略は・・・などと考えつつ、ライブ開始。
スタンディング状態で、4時間30分に及ぶライブを堪能しつくす。
大いに楽しんだ。が、さすがに疲れる。
2002年11月10日(日)
ベルリン公演の4日目。
観客数も大分、増えてきた。
「014-SCAR」→オープニング映像を終え、「019-WRIST」で登場すると、確かに昨日までの緊張感はややほぐれている様子。
終演後の評判も今までで一番手応えあり。
ロビーで、ミランダと彼女の友人の写真家のマグダと話す。
マグダはフォトセッションをやりたいとの事で、その打ち合わせ。
バーに移動すると、今日の公演の観客がいる。彼等も気に入ってくれたらしい。
「019-WRIST」「023-SILVER」が特に好きと話してくれる。
個人的にはどの作品も可愛いのだが、正直新作への評価が出てくるのは非常に嬉しい。
更に別のバーに移動。ここは4日に行った地元のアーティスト達が住んでいるビル内にある。稼動するモンスターがいくつも陳列されている。
ミランダにベルリンの状況やORPHTEATERの印象などの忌憚のない所を聞く。
やはり彼女達にとってはやや固い印象のある場所ではある事、若者達にとって11ユーロという入場料は気軽に行ける設定からはやや高い事などを確認する。
一般的にポーランドのような熱狂は少ないとの事。ここはポーランドに比べ情報も多く、観客の住み分けもその分強固に出来ているのかもしれない。
観客の反応(良し悪し含め)からも感じていたのだが、アメリカやイギリス、ポーランドに比べ、何か日本に近いものを思う。
2002年11月9日(土)
ベルリン公演の3日目。
今日もホテルの部屋で前日のビデオを見る。
「023-SILVER」にラストシーンについて更に様々なアイデアが出る。今こいつは成長期。
劇場に行くと、また新聞数紙に情報が載っている。
今日はパンクファッションの人達やゲイのカップルなど、客席に革パン人口が高い。
終演後の評価は真っ二つ。
上記の革パンファッションに身を包んだ層は、終演後スタッフに向け親指を立て笑顔で去っていくが、一方途中で退場した観客もちらほら。
劇場の人達が、ORPHTEATERには所謂「演劇」を期待して来る人達が多く、それと違うという事で拒絶反応が起こると話す。
レストランでミーティング。
「014-SCAR」→オープニング映像→「017-SPEAKER」の流れは、ポーランドと同じなのだが、ここベルリンでは圧倒的に客席の張り詰めた緊張感が高い。
その緊張感は否定するものではないが、一面過度な抑圧感も生んでいる。
明日は演目の順番を、
「014-SCAR」「019-WRIST」「017-SPEAKER」「022-RIDERS」「023-SILVER」に変えてみる事に。
作品間に挿入される映像もベルリンで新しいものを撮影して作る可能性はないかと探る。
迎合する事はないが、戦略は必要。
2002年11月8日(金)
ベルリン公演の2日目。一般の観客向けとしては初日。
こうなってくると寝て体力回復するのが仕事とばかりに、街へ出掛けていく皆をうらやましく思いながらも、昼過ぎまで就寝。
その後、ホテルの部屋で全員で前日のビデオ見て、ミーティング。
オープニングのビデオを変更する事になり、急遽村山が必要な編集をする事に。
「023-SILVER」についての話が続く。特にラストに向けての音の展開に関しての議論が多く。
劇場に入り、実際に音を出しながら話し、結論。
動きの構成も更に変化させ本番。
夜、舞踏が好きという照明家と話すも噛み合わず。
個人的に絶対視している世界観から全てを当て嵌められても・・・
2002年11月7日(木)
関係者やマスコミなどへ向けたプレミア公演の日。
昼前から会場に入り、新作の「019-WRIST」「023-SILVER」を中心に稽古。
「019-WRIST」の照明がイギリス公演に比べ、大幅にグレードアップ。
今日発行の新聞3紙にまた情報が出たらしい。「PINK POWDER PUNK」というタイトルが目をひく。
ゲネプロ開始。終了後「023-SILVER」のビデオをチェック。
納得のいかない点が幾つかあり、繰り返しビデオを見ていると、いつしか開演の1時間前。慌ててメイクを開始。
「014-SCAR」「017-SPEAKER」「022-RIDERS」「019-WRIST」「023-SILVER」を上演。
「023-SILVER」については本番中の衣装・メイク替えの最中にも修正方法を考え続ける。ゲネよりもずっと作品の世界観が確立した感を覚える。
終演後、劇場の皆がパーティを開いてくれロビーで歓談。
正直観客数は多いとはいえず、広報担当のサビーナが「宣伝中の手応え充分だったのに、何故かわからない・・・」と頭を垂れている。
まだまだ8日公演の初日で、これから時間がまだまだあるからと話す。
2002年11月6日(水)
今日も朝から仕込みを開始。
準備中に昨日手配してくれた調光器がやはり信号が異なる為、この劇場では使用できない事が判明。
複雑なマニュアル操作が必要な「022-RIDERS」を現在の条件で行うのは、精度を妥協しなくてはならないと判断、急遽「016-WALL」に演目を変更する事を判断。
手配が上手くつかない事を気にしてくれ、延々と一生懸命に電話をしてくれているステファンに、そもそも断腸の思いで演目から外した作品も多いし、その会場に似合った演目を選定していくのがコンセプトであるから、この変更に妥協はないから大丈夫だと説明し、音、照明共にその為のセッティングを早速開始する。
軽めに「016-WALL」を通した後、ラストシーンについての議論をしている最中、他の業者から調光器の手配がつく事に。
マティアスが信じられない程、値切ってくれたようだ。感謝。
何を上演するにしろこの卓があるに越した事はない。早速借りる事にする。
そして、今回のツアーの流れ、今回のメンバーでの作品創りの経緯、選択肢が再度広がった状態でのこの劇場との相性などを再度ミーティングし、演目を再度「022-RIDERS」に戻す。
新しい卓への移行処置を行い、全演目の照明の確認とミーティング。
その後、新作の「023-SILVER」の稽古を重点的に行う。
やはり稽古場では現実化し難い照明という要素が入ると身体の反応も世界の様相も大きく異なってくる。ある意味ここから初めて新作は始まれる。動きも音も変更、調整が相当に必要だ。修正、発見、議論を繰り返す。のだ。
約束の退館時間である23時をオーバーし、ぎりぎりまで詳細を詰めていく。
2002年11月5日(火)
朝から仕込みを開始。
灯体が充実しているし、新作の上演もあるので、様々な試行や実験をしながらの準備作業。段々と現実化してくる空間の構築具合に手応え。
劇場のスタッフも非常に積極的に一緒に作業に参加してくれる。
昼過ぎに広報担当のサビーナがやってきて、「tip」という雑誌を見せてくれる。
今回の公演の記事が、そのページの中で一番大きなカラー写真入りで紹介されている。
日本に例えるとぴあとか東京ウォーカーのようなベルリンの情報誌。
サビーナは今もメディアや批評家との連絡の最中らしく、夜広報についての打ち合わせをしようと残して、急ぎ去っていく。
夕食は白米を入手し炊き、出国以来初の「ご飯」を食べる。「食事をした」という感を強くする。
まだ問題は抱えている。この劇場の調光卓はマニュアルのフェーダーが一本もついていない。
僕らの作品は決め事もたくさんあるのだが、全てを再生しようという作業ではなく、本番の真っ最中にパフォーマー、ミュージシャン、照明家が思考を高速度で回転させ実行に移す瞬間の判断で、ライブ感を出しているという要素が肝だ。
基本的に記憶させた照明を再生する為のこの調光卓では苦しい。
フェーダーのある調光卓を用意してくれる筈だったのだが、どうもあてが外れたらしい。
まずい事にここの劇場の信号は旧式のアナログの為、現在の主流の機材でが互換性が無く代わりを探すのが難しいのだ。
技術担当のステファンが、僕らのやりたい事を理解してくれ、何人もの友人に連絡を取ってくれる。
演目の変更も真剣に考え出した矢先、とうとう10人目の電話で卓が見つかり、明日の朝10時30分には届く事に。ここにいる全員から喜びと安堵の声が上がる。
直後にこれもリクエストしていたストロボライトをステファーが持ってきてくれる。
他の劇場の終演を何時間も待って取ってきてくれたらしい。本当はその劇場で明日も必要なものとの事。
マティウスの説明では、ある筈のストロボが無いので原因を探っていたら、仲間が内緒で勝手に持ち出して何ヶ月も返却しなかったらしい。
だから今回「お返し」をしてやったんだと嬉しそうに話している。
本当によいのかなと思いつつ、ストロボのセッティングも完了。
ここの人達の協力体制に深く感謝。
正直、イギリスから何回も起きているトラブルはこちらの情報収集不足やコミニュケーション不足の点も多くあり、強い反省をしなければならないのだが、色々な事が起こり過ぎて忘れらないツアーになりそうだ。
2002年11月4日(月)
今日はドイツへの移動日。
朝、シャワーを浴びると、背中にチクチクした痛みが。
どうも「011-DOT」で倒れた時に床の材木の破片がたくさん刺さっていたようだ。
昼過ぎにミランダが手配してくれた運転手つきのワゴン車に乗り込み、陸路で国境を越える。
夕方にはベルリンにある会場の「ORPHTEATER」に到着。
劇場のマティウスやステファンらと対面。
オフィスにはベルリン側が作ってくれた「017-SPEAKER」の写真が使われたポストカードが置かれている。市内に結構撒かれているらしい。
劇場を見せて貰う。古い倉庫を改造したような、廃墟感のある小劇場。このスペースも赴きがあって凄く良い。非常に気に入る。
はやる気持ちをマティウスに「まずはコーヒーと煙草で休もうよ」と制されつつも、打ち合わせを開始。
灯体も充実しているし、会場に似合いそうな演目が多く、切る作品を選択するのが辛い。
時間のあるこのベルリンで新作を詰めていこうとなり、
演目を「014-SCAR」「017-SPEAKER」「022-RIDERS」「019-WRIST」「023-SILVER」に決定。
「023-SILVER」はここが初演となる。
実は大問題が残っている。
劇場の方達とは別に我々の宿泊の手配をしてくれていた人がいたのだが、身内に不幸があった影響で中途半端な状態のままでシチリアに帰ってしまったらしい。
昨日から一生懸命ミランダがその仕事を引き継いでくれている。
一軒候補先が見つかる。
上方に設置されているチューブ上のライトに案内されるように路地に潜っていくと、地元のアーティスト達が大勢で占有しているというまたも廃墟のようなビルへ到着。
鉄製の巨大なオブジェがあったり、様々なポスターが乱雑に貼られている怪し気な空間。
非常に興味深い場所ではあり残念ではあるが、狭さや設備を考えると2週間7人が滞在するのは無理。
結局、マティウスが関係のあるホテルとコンタクトを取ってくれ、劇場から僅か60mの距離にある場所を深夜になってようやく確保。
ベルリンの夜はシュシェチンより寒い。これから日毎に寒さは増していくという。
2002年11月3日(日)
ポーランド・シュシェチン公演の本番日。
昼過ぎから会場入りをして、リハーサル開始。
作品間の照明の転換や「012-RAG」の僕と音・照明とのコンビネーションに課題が残り、入念なチェックをしていると時間がどんどん足りなくなってくる。ぎりぎりでメイクを開始。
楽屋でメイクをしていると、急遽開場時間を早めたいをいう劇場側からの申し出が。
どうやら想像を上回る数の観客が来ているらしい。
皆が大急ぎで開場準備を済ませると、今度はそこに巨大なカメラとライティングセットを持ったテレビ局のクルーが入ってくる。
こんな状態では客入れは無理。
本当は僕の様子を撮りたいとの事だったのだが、メイク途中の時間では不可能。
昨年の公演を見ているミランダがインタビューに答える事にする。
テレビの件を済ませて開場、そして開演。
「014-SCAR」の姿で舞台に上がる。照明がつき客席を見渡すと、ぎっしりと埋まっている。
スカンクの演奏位置や村山のビデオ操作のすぐ脇にも観客に入って貰ったり、それでも椅子がない人達は床に直接座っている。
「014-SCAR」「017-SPEAKER」「022-RIDERS」「011-DOT」「012-RAG」を上演。
エンディングビデオが流れる。「END」のテロップが出る大分前から拍手や歓声が。
終演後はすぐにラジオ局のインタビューを受ける。
身体も頭もまだ冷却が充分でない状態で、言葉が異常に下手だなと思いつつも何とか言語を発し、大見謝に通訳して貰う。
昨日レストランで会ったオランダ人が大喜びで握手を求めて来、「ベルリン公演にも行くぜ!」と言ってくれる。
すぐ下のレストランで打ち上げ。
劇場のオーナー(演出家でもあり、パフォーマーでもある)達と歓談。
彼はポーランド語しか出来ないので、日本語→英語、英語→ポーランド語の2人の通訳を通して会話。
内容も気に入ってくれたらしく、岩のようなごつい顔がだんだんとほころんできている。
観客も非常に喜んでいたし、数も彼等が驚くほどだったらしい。
僕の作品が死を連想させ、それが自分達の興味と非常に近いという話、ダデウシュ・カントールや寺山修司、土方巽などの話、政府のアートに対する援助の話など話題は尽きない。
オーナーや劇場スタッフで大活躍してくれたヤネックと、来年もまた必ず公演をやろう、そして今後の互いの連絡を密にしていこうという事を約束して、別れる。
2002年11月2日(土)
今日は別のドイツ人のグループが、劇場を少し使いたいという事で、夕方4時の会場入り。
という事で朝は街を散策。
カンタベリーで腕時計を無くしてしまったので探す。15ズオティ(約450円)で購入。
その後ホテルの部屋に皆集合して、カンタベリー公演のビデオを見ながら、打ち合わせ。
会場入りして、作業開始。
昨日照明を届けてくれたデットレフが今日もドイツから更に4灯持ってきてくれる。感謝。
これらを本番中に差し替え、色替え、灯体の移動を駆使する事で、かなり良い内容のものが完成。
数があるに越した事はないが、限定される事で初めて生まれてくる発想もある。
自作の調光器のせいか、突然何度かつけている照明が消えて他の照明が何故かつく現象が。本番でこれが起きたらまずい・・・
明日、川口が中を開けて原因を調査する事に。
夜、昨年のスイス&ポーランド公演のスタッフだったミランダに一年ぶりの再会。
明日のポーランド公演、そしてドイツ、スイス公演までずっと協力してくれる事に。
2002年11月1日(金)
朝からTEATR KANAへ。
ペンキと材木と埃の匂いがする100人位のキャパの劇場。かなり好みの感じ。様々なアバンギャルドな舞台が上演されてきたのであろうとの感じが漂っている。
ただ照明機材が圧倒的に足りない。10灯程度しかないのだ。どうやら連絡の行き違いもあったらしい。
スライドのプロジェクターやら電気のつくものをかき集める。
また故障していた機材を川口が速効で修理して増やす。
無理を聞いてくれたヤネックがベルリンに連絡してくれて、ドイツから機材が届き更に6灯追加。
客席下にはたくさんの舞台照明が積み重なっているのだが、皆故障しているらしい。
凄い年代物で、部品がもう手に入らないとの事。博物館的な価値がありそう。
この空間に似合いそうなキャラ、照明機材の事などを皆で話し合い演目を、
「014-SCAR」「017-SPEAKER」「022-RIDERS」「011-DOT」「012-RAG」に決定。
黒い壁、ガタガタの木の床のこの場所には「014-SCAR」が凄く似合いそう。
10時まで作業した後、ドイツから照明を届けてくれたデットレフと食事に出かける。
彼は、ドイツのブルーリンで行われたフェスティバル「Exit」の照明担当だったらしい。
このフェスは3年前、僕にも話が来た事があるので知っている。
吉岡由美子(ミゼール花岡)さん、森田一踏さん、長岡ゆりさんなど知人の日本人ダンサーの名前が随分と出てくる。
バーで会ったフランス人からは、大友良英さんやRUINSの名前も。


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