2003年10月30日(木) |
ニモツブジトドク・・・ そりゃリスクだけどさ。態度はあるよな。 |
2003年10月29日(水) |
航空会社から連絡。荷物が発見されたとの事。 アムステルダムでタグが外れて、何処に送る荷物かわからなくなり保管されていたとの事。取り敢えず、安堵、安堵、安堵。 10月14日の日記に僕が書いた「駄目な部分を探して突き合ってる日本の状況は糞喰らえだ。」という文に関して、ボクデスの小浜正寛さんが御自身ののWEB日記「世界の車窓へ」の10月16日分で「共感を覚える。」と書いてくれていたのはブダペストのインターネットカフェで読んでいて、非常に嬉しく思っていた。 その言葉が、今日久々に覗いた遊園地再生事業団のページの中の宮沢章夫さんの日記「富士日記」の10月19日分で再引用されているのを発見して非常に驚く。 ここでは経済構造とアンダーグラウンドな演劇が生まれた状況、現状について考察されている。 この事は僕もここ数年ずっと考えていた事でもあって凄く興味深く読む。 「日本のアンダーグラウンド演劇が生まれた背景には一九六〇年代の経済構造の変化があり「アルバイト」という労働形態が生まれたことがあげられる」という宮沢さんが引用した「ある評論家」の方の言葉は確かにその通りに思う。 ただシステム化する以前に、最初の頃にそれを選択した人々の気概や異常さは大概のものであったと思う。 僕が活動を始めた約20年前でも、進学や就職もせず舞台活動を選ぶ人間は、社会的には異端者と呼ばれる人間が大多数であった。 と懐かしがっているのでは無いのだが、「所謂」ワークショップ公演に代表されるような、誰でも参加出来るようなものには興味を持てない。 それは寧ろ権威がしっかりとしている時に有効なものではないのか? 異常だったり特殊だったりする人間達の異常な行為が僕は見たい。 |
2003年10月28日(火) |
夕方までぐっすりと就寝。 夜、航空会社から電話。荷物はまだ見つかっていないとの事・・・ |
2003年10月27日(月) |
台北で成田行きに乗り込む際に、最後の事件が勃発。荷物が一つ無いらしい。成田でどんな荷物が無いか確認してくれとの事。 何か落ち着かないが、今は如何ともし難い状況の我々を飛行機は日本へと運んでいく。 19時過ぎに成田に着。 飛行機を降りるとすぐの所に係員が待機していて、ロストバッケージに関する段取りの話を始められる。 そうじゃないだろ。謝罪の一言も無いまま事務手続きの話かい。説教する。 荷物の受け取り場へ。 無い荷物が判明。衣装類が全て入ったトランクだ。 まずい。来月にはJCDNの「踊りに行くぜ!!」の新潟公演を控えているのだ。 衣装はポワレティカの流川リコ製作の特注品も多く、そう簡単には再生出来るものではない。 トランクの中身に関して詳しい説明を求められる。 今後どのような方法で、連絡はどのように何時頃貰えるのか?との問いに対して「一生懸命探します」としか答えない担当者。 何を尋ねても、後々問題が大きくなった際の言質となる事を恐れてか「一生懸命探します」を繰り返すのみ。誠意など全く感じられない。 数十分かけて、ようやく明日捜索の途中経過を電話連絡させる事を約束させる。 そんな約束するだけで大苦労。こいつらときたら、全く。 空港でレンタカーを借りる。皆、荷物が非常に重く多いので、最寄り駅に着いてからも大変なのでこの方法にしたのだ。 空港からの車移動は、まるでツアーが続いているよう。今は何処の公演会場に向かっているのだろう?って去年も同じように思ったな。 宇野の自宅近くの踏み切りがいつまでたっても開かない。近くの駅で事故か何かあったらしい。最後の最後まで色々あるなあ。 大回りして何とか脱出。その後、一人ずつメンバーを自宅で降ろして、お別れ。皆、本当にお疲れ様でした。 久々の寿司と日本酒で遅い夕食を取って帰宅。午前2時。 |
2003年10月26日(日) |
朝4時30分にヘルマン宅を出発。 こんな時間なのにヘルマンも起きてきてくれる。皆と握手や抱擁。 ウィーンの空港から、アムステルダム、バンコック、台北でトランジットをする長旅だ。 7時20分にウィーンから飛び、成田の到着予定は明日の日本時間で19時。 トランジットの待ち時間も多いし、実に27時間40分かけての帰国予定。 アムステルダムから乗ったEVA航空のスチュワーデスの態度がぞんざいだ。ちょっと怒って抗議。 以降、我々の周辺の席にくる度に言葉が丁寧になったり、表情が柔らかくなっていたりする。その変貌するという事自体が以前のぞんざいさを物語ってる。なめるな。 |
2003年10月25日(土) |
朝11時ホテルをチェックアウト。 オフが無く殆どうろつけていなかったプラハの街を少しだけ散策。今日は土曜日、殆どの店は正午で閉まっていく。 それでもいくつか開いている市場で買い物。開店しているのは、8割方中国系の人達のものだ。 バス停前の売店で買ったチーズとマヨネーズだけを挟んだ温かいパンがすこぶるうまい。寒い外で食べているからなおさらか。 迎えの車が来る予定のホテルへと戻ると、マルケリータからフェスティバルのTシャツとメッセージが届いている。わざわざ届けてくれたんだ。有難う。 15時発の列車でウィーンへ。約4時半の移動。 18日振りのウィーン。今回の欧州ツアー最初に泊まらせてもらったヘルマンの家に、最後にまたお世話になる。 皆でレストランで食事。乾杯。一体ツアー中何回乾杯しただろう。 今年は最後となる欧州の街をスカンク、宇野と3人で散歩。 明日日曜からサマータイムではなくなる事をヘルマンが教えてくれる。1時間だけ多く眠れる。 |
2003年10月24日(金) |
プラハ公演の本番日。フェスティバル自体のオープニング日でもある。 朝10時30分に会場入り。12時までの時間を昨日出た問題点の修正と、音と照明を合わせる時間に当て、梅田さんと交替。 相変わらずの大騒ぎではあったものの、今回のツアーで一番充実した準備が結果的には出来る。 鶏が放し飼いになっていたり、道路上で丸焼きになる真っ最中の小動物がいる山道を少し下りて、昼食を取りに近くのチェコ料理のレストランへ。 PHOTO/ABE AKIKO 店内は満席。一人で超低アルコールビールを飲んでいるお爺さんの所に相席させて頂く事に。 お爺さんが色々と我々に話し掛けてくる。どうやら近所に住んでいるらしく、フェスティバルのスタッフも泊めているとの事。 買い物帰りで今日は家に帰ってワインを飲むだけの予定だからと、この後我々をホテルに送ってくれるという。 主に肉体労働者がお客である為、量が多めという料理を我々が食べ終わる間、お爺さんは超低アルコールビールをおかわり。 レストランで偶然出会したマルケリータにフェスの情報を聞くと、後で観にいくとも言ってくれる。 店を出て5人でもきつい位の車内に6人が乗り込む。いきなり直線のバックに手こずるお爺さん。レストランの看板や隣の車に何度もぶつけそうになる。 超低アルコールビールしか飲んでないから酔ってない筈なのにおかしいなと呟いて、一人大笑いしている。 そういえばレストランで若干手が震えていた気が・・・アル中気味??? 何とか駐車場のトラップを脱出して、右車線の筈のチェコの道を思い切り左に寄りながら、車は進む。無事ホテル近くに到着。ふう・・・ ホテルで2時間程仮眠を取った後、バスに乗り会場へと戻る。 梅田さんが現地に用意して貰ったプロジェクターに問題があったらしく、若干時間が押している。 約20分押しで梅田さんの舞台がスタートし、大歓声の中終了。 ここから一旦観客はバーのあるロビーに出て、僕らの舞台への転換だ。30分の予定が40分掛かる。 更に観客が再入場する時間とパベルの挨拶があって、合計で予定を約50分過ぎた9時18分に僕らの公演が開始。 「021-WRINKLE」「O17-SPEAKER」「018-NET」「011-DOT」「012-RAG」を上演。 「021-WRINKLE」でフードを取って特種メイクの顔が露出した瞬間に歓声、「O17-SPEAKER」でもクスクスと笑い、ダイジェストのビデオでは大爆笑、「011-DOT」後は大歓声と大拍手。勿論カーテンコールでも。 笑いを取る事を狙っている訳ではないが、笑いも反応の一つ。兎に角ここまでダイレクトな反応がある事は海外公演でも希有。素直に嬉しい。 「012-RAG」の途中で、予定外の所で暗幕が開いてしまう。 暗幕の後ろから覗いた白幕に急遽絡む。こういう時の頭の回転は凄まじい速度だ。 パベルもフェスティバルに凄く合っていたし、観客も喜んでいたよと笑顔。 僕らもバーに行く。 白衣に透明ビニールのレインコート、医療用キャップにゴーグルを掛けたサイバー風のパフォーマー達がウエイター、ウエイトレスをやっている。 バーのステージではチェコのミュージシャン、ブルーノ・アムステッドのLIVE。 架設の会場、多ジャンルの出演者、格好の良いバーに、オブジェやインスタレーション。こんなイベントこそ僕らが日本で実現したいもののように思う。 スカンクや中村茜がプロデュースして僕も出演させて貰ったイベント「NEW SHOXX」も一つはこのような方向なのかもしれない。 観客の一人が話し掛けてくる。 僕が舞塾に在籍していた18年前、1年先輩でよく同じ舞台に上がっていたフランク・ヴァン・デ・フェンを知っているかと。 懐かしい名前に驚く。詳細を聞くとフランクが数週間前チェコでワークショップを行っていて、声を掛けてくれた彼はワークショップ生らしい。 フランクは僕が来る事を知って、自分は今日は他国にいて来れないので、連絡先を彼に託してきたのだ。お互い活動を続けていると出会えるものだな。 ホンザやトーマスと乾杯。彼等も公演を凄く気に入ってくれる。 スカンクが自分のバンド「MEXI」のCDをプレゼント。これにも大喜びしてくれる。 トーマスがバーのDJに早速CDを渡す。会場に響き渡る自分のバンドの音に照れるスカンク。 2人とまた必ず一緒に仕事をしようと約束。 帰宅するバベルとお別れ。酔いか疲れか別の何かか目がうつろ。それでもまたの再会をここでも約束し合う。 フェスティバルと最寄り駅を結ぶシャトルバスという名のただのワゴン車に乗って、1時過ぎに会場を発つ。 今日のプラハが今回のツアー中最も冷える。地面も少し凍結気味。 僕らの2003年欧州ツアーの公演が終了した。 |
2003年10月23日(木) |
プラハ公演の仕込み日。朝9時30分に会場入り。パベルとまたも握手。 照明、音響の設置。昨日のメンバーに加え、舞台監督のトーマスやビデオプロジェクターの担当者らもいる。 怪力ズデニアックは長テーブルほどの大きなミキサーを軽々と持ち上げ設置し、スカンクの出す音をあっという間に良い具合に調整していく。 昨日車が壊れたと言っていたし、今日運んできたモニターも怪力で運んで来たのか? 明後日公演の竹谷さん、古舘さん、制作のベッティーナとウィーン以来の再会。 ベッティーナがMichiさんとのフォトセッション時のプリントを早速届けてくれる。気に入る。有難う、Michiさん。 PHOTO/Michi 途中までは非常に順調な作業だったのだが、夕方以降随分と時間が足りなくなってくる。 スタッフが他の仕事も抱えている為に中抜けする事がままあったり、やはり言葉の問題で意思の疎通に時間がかかったりか。そしてプラハに限らず欧州のスタッフ達は自分が気になった事を後回しにせずすぐに直そうとするから、同時進行が不可能な作業がどんどんと残っていく傾向もある。 明日の公演は梅田宏明さんと同日公演。明日は梅田さんの仕込み、リハーサルに時間が割り当てられているので、どうしても今日の内に殆どの作業を終わらせておきたいのだ。 結局、リハーサルを開始したのは夜0時30分。2時までホンザ、トーマスが「いつも3時4時まで起きてるから大丈夫。もう1回リハーサルは無理だけど」と笑顔で付き合ってくれる。 彼等の人柄と、この作業が絶対に必要なものであるという事を充分理解してくれているのは無論の事、やはりこのフェスティバルが正に「祭り」である事も影響していそう。 しかし今回の欧州ツアーはこんな状態が結構多いな。皆の厚意とやる気に助けられて非常に嬉しい事だけれど、我々ももっと迅速に出来るようスキルやプラン、決断力に磨きを掛けていかねばならない。 |
2003年10月22日(水) |
プラハへの移動日。 迎えに来てくれたゾルタンの押すインターフォンの音で皆めがようやく覚める。まずい。ごめんなさい。 朝10時ブダペスト西駅を発。約7時間の列車移動。座席は空いていて非常に助かる。8人分の座席を使用して荷物置き場にする。 ゾルタンが車内で温和な風貌とは裏腹な意外なパワーを発揮して、異常に重い我々のトランクを頭を支点にして座席上の置き場へとリフティングしてくれる。 車内でゾルタンとお別れ。 PHOTO/ABE AKIKO 電車はスロヴァキアを通過して、約7時間後チェコ・プラハへ。 途中、煙草を吸いにデッキへと出た僕に車掌がつたない英語で話し掛けてくる。まずい、ここも禁煙だった? 彼は日本の500円玉と100円玉を差し出してくる。「チェンジ」「コピー」「クローン」・・・ どうやらユーロかハンガリーのフォリントに替えて欲しいらしい。小額硬貨は換金出来ないしね。でも厳密にはこれって犯罪? 迎えに来てくれた車に乗って、まずはホテルへ。ここはブダペストよりずっと東欧といった印象だ。 車内で我々が参加するフェスティバルのパンフレットを渡される。立派な印刷物だ。 やや郊外のホテルで荷物だけを降ろし、早速会場へと更に郊外へ向かう。 少しだけ山道を車で上り、着いた先は元は冷蔵倉庫だったという広い建物。ここがフェスティバルの会場だ。 このフェスティバルは、廃屋などを利用した架設の会場で、毎年場所を移動して行われている。 中は設営の真っ最中。250ほどの客席があるステージは勿論の事、バーの内装やオブジェ、案内看板を大勢のアーティストやスタッフ達が作っている。 赤く統一されたビールケースを重ねた観客の動線の為の壁には電飾が施され、巨大やチューブ状のオブジェが天井から吊り下がるロビー。 クオリティも高いし、正に「フェスティバル」の開幕間近という熱気が漂っている。 PHOTO/ABE AKIKO プロデューサーのパベル、マルケータと挨拶。 パベルはにこやかな笑顔を見せ握手を求めてくる。マルケータはちゃきちゃきとしたキャリアウーマン風で必要な伝達事項を次々に伝えてくる。 このフェスティバルは中々注目されているものらしい。プラハにはあまりイベントがないからね、とパベル。 最寄り駅からのバスの車内でもフェスティバル会場の場所がアナウンスされるとの事。 テクニカルディレクターのペトロ、照明のホンザ、音響のズデニアックらといつものように打ち合わせ。 安部がブダペストからの列車の中で描き直した仕込み図を前にペトロ、ホンザ、宇野を含めた4人が入念なミーティング、ズデニアックはスカンクが必要なラインを確認した後、巨大なスピーカーを怪力でたった一人で車から降ろし設置している。 会場を見た上で追加として必要になりそうな灯体やモニタースピーカーもあっさり用意してくれる事に。皆、凄く協力的だ。 ミーティングを終えパベルとまた握手して、ホテル方面へと帰る。 |
2003年10月21日(火) |
ブダペスト公演の本番日。 朝から大事件発生。スカンクが朝起きると玄関の扉が開いている。扉に付いている窓も全開。外側の扉に鍵が刺さって残されている。何ものかが侵入したらしい。 急いで盗まれたものが無いか探索。夜中に起きて稽古のビデオをチェックしようと置いていた宇野のビデオカメラと、玄関脇のコート掛けに掛けていた僕のライダースジャケットが無い。 通訳のアンドレアに連絡。警察へ通報。アパートの借り主であるプロデューサーのゾルタンもやってくる。 事情聴取、扉に残された指紋の採取。 窓をこじ開けられたか、合鍵で入られたらしい。 実はこのアパートを管理していた会社が数日前に倒産して、管理状態が曖昧らしいのだ。 犯人は玄関を入ってすぐのリビングにだけ入って、我々が就寝していた部屋までは来なかったらしい。 身体への危害が無かった事と、普段はリビングにも結構ものを置いていたのだが、この日は大抵のものを劇場に運んでいて被害が拡がらなかったのが僅かに不幸中の幸い。 何故かこの日に限って僕もMACをリビングでは無く寝室に置いていた。 というのが朝の状況だったらしい。らしいというのは実は僕はアンドレアが来ても、ゾルタンが来ても、警察が来ても全く気付かず寝ていた・・・ これでは寝室に入られても判らなかったかも。 新品の鍵を買ってきて取り替えたゾルタンはこんな所に住ませねばよかったと、落ち込んでいる。 犯行現場に残された証拠品の鍵を何故か持ったまま「House of Terror」へと出掛けたスカンクは、昨日のモヒカン兄さんにまた会ったらしい。 彼の話では今日のチケットはソールドアウトで買えなかったと。また是非ハンガリーに来て欲しいと、連絡先を交換。 今日はNomade~sの皆さんと時間を折半しているので、15時に劇場入り。19時までの4時間が僕らの持ち時間だ。 昨日殆ど出来無かったサウンドチェックを終え、短かめのリハーサル。 20時開演。 「014-SCAR」「016-WALL」「011-DOT」「012-RAG」を上演。 モヒカンの兄さんの話し通り、200強の客席は満席。超満員。 「016-WALL」で壁にタックルする度に、幕の開け閉めの為に袖で飼い殺しになっているフェレンツの姿が見える。 終演後ロビーのカフェでビール。 ゾルタンもアンドレアも喜んでくれている。フェレンツも舞台は殆ど見れなかったがギターが凄く良かったと。彼には悪い事をしたな。後でビデオを送ろう。 数人の観客にパンフへサインを求められる。 「ミスタークレイジーミラーボール」というちょっと昔のプロレスラーぽいニックネームを貰う。 0時過ぎの撤収完了後、警察署へ。ビデオカメラの保険の件で、書類が必要なのだ。 深夜までゾルタンもアンドレアも付き合ってくれる。迷惑掛けて申し訳ない。 聴取終了後、問題のアパートの前でアンドレアとお別れ。日本に来たら会おうと。 彼女は大学卒業後は日本に来るプランがあるらしい。でも日本で2年、ハンガリーで5年大学生をやっている。いつになったら私は日本に行けるのだろうと言っている。 部屋に戻って皆で漢字好きのイムリ・ゾルタンの日本表記をプレゼントしようと思案。「居矛里 造流丹」と昔、書をやっていた松本が書く。ケーキの包み紙を半紙代わりにして。 |
2003年10月20日(月) |
ブダペスト公演の仕込み日。 今回はNomade~sの皆さんと同日公演なので、宇野、安部とNomade~sの照明の福田さん、そして劇場のフェレンツらと照明の吊り込みやシュートの作業が続く。 スカンクは音響の基本設定に関して、Nomade~sの音響の牛川さんに意見を貰っている。 近くのスーパーの中にある露店で昼食を取っていると、モヒカンの兄さんが話し掛けてくる。明日は何時から開演かと。 お、僕らの公演の事を知っているんだ。時間を伝えて別れる。 劇場に戻って作業を再開。 石川雷太さんが、雨でずぶ濡れになりながら、電線のついたコンクリートの固まりなどのインダストリアルな物体を街で拾ってきては、会場に運んでいる。 幸い?な事に路面電車の劇場への最寄り駅が工事中で良いブツがたくさん転がっているらしい。 これらは明後日のErehwonの公演で使用される。 僕らはこれまで海外公演は「もの」を使用しない「SHORT SOLO WORKS」シリーズのばかりだが、もう一方の「もの」を大量に使用したタイプの公演もいずれは上演したいと思っている。 最低1〜2週間はかけて現地で「もの集め」をして作品を創るのもよいなという、以前からのアイデアに再び思いを馳せる。 アパートへ戻る。夕食作りと思ったら、キッチンのある女性陣が使用している部屋の電気が突然落ちる。 ブレーカーを見るが皆上がっている。此所では無いのか。 部屋中の探索開始。ブレーカーのある棚の奥から謎の鍵を発見。何処の鍵だ? ここには金庫らしきものや、戸棚など我々が使用していない鍵穴がついた物体がいくつもある。いろいろ試すが何処も開かない。 高い所に細かいブレーカーが設置されている棚を発見。電気は無事復旧。 棚や家具の中を探したり、鍵を試したり、まるで「バイオハザード」。 |
2003年10月19日(日) |
オフ日。 一昨日、雷太さん、コウソクさんが出掛けて、良かったと激しく勧められた「House of Terror」という博物館へ。 2〜3年前に出来たというまだ新しい建築物。 大戦時のソ連軍との戦い、その後の圧政の様子、多数の死者を出した1956年の「ハンガリー動乱」、89年の社会主義体制崩壊までの暗い歴史に関する資料が多く展示されている。 屈強そうなセキュリティーに扉を開けて貰い、入り口を通るとまず黒く重厚な戦車が。上の階には、当時の資料。 この博物館の凄い所は、単なる展示の羅列ではなく。博物館自体、そして各部屋が建築物としてインスタレーションとして非常にクオリティが高い点だ。 当時配給されていたと思われるレンガ状の豚性の脂の固まり(を象ったオブジェ)は大量に積まれ迷路の壁となり、裁判所を再現した部屋は裁判の書類で壁も床も椅子も被い尽くされている。 地下は当時実際に使用されていたらしい様々な監獄。立つ事も許されない低い天井のもの、逆に立つ事しか許されない狭いもの、床に水が流れる仕掛けのものetc・・・奥には絞首台。 背景を考えると軽々しい感想は憚られる部分もあるが、このアートを充分に堪能する。 市民公園に移動し、セーチェニ温泉に入ろうと試みるが、閉館40分前では入場を許されず。 今日は日曜、他の施設や店も閉まっている所が多い。 遅くまで開いている王宮地下迷宮へと地下鉄で移動。 一部だけ公開されていて、未開放の部分には今でもVIPの緊急避難場所があるとの噂もあるという洞窟は、ちょっと観光用に直されすぎか。コカ・コーラを象ったオブジェまで何故かある。 湿度が高い迷路洞窟を暖まりながら、探検。 冬を間近に控えた欧州の夜は大分寒くなってきた。 |
2003年10月18日(土) |
オフ日。 街へと散策に出掛ける。観光客が集まる中心地に購買欲をそそられるものなど殆ど無い。 「パブリッリエナミー」のLIVEのポスター発見。スティーブ・ライヒに続いてこれも我々の公演と同日だ。関係ない?ある? ブダベスト西駅へ移動。凄く速いスピードで動くエスカレーターで地下街へ。 地下街のショップの方が地上より安価だし面白い。やっぱりアンダーグラウンド? 「ヘルンバイン」の拘束具を付けた「RAMMATEIN」のCDジャケットのパーカーを3000フォリント(約1500円)で発見。 サイズが合わず、「SlipKnot」のものに変更して購入。稽古着用。 別の店で1500フォリント(約750円)の赤い豹柄シャツもゲット。ちょっと野村沙知代入っているかな・・・微妙か。 帰宅後、スーパーで購入したトカイワインとフォアグラとキャビア(偽)で食事。 いや凄く安いのです、フォアグラ。 安部は生まれて初めてのフォアグラを細切れにしながら、しみじみと食している。 宇野と朝4時過ぎまで、今年の欧州ツアーのビデオを麼なが見ながら言葉を交わす。 宇野と別れた後も、睡眠モードにはなれず、今回のツアーのビデオを一人観る。 MAkでのErehwonから「015-PETAL」へのスカンクの音の繋ぎが絶妙なのを再発見。 |
2003年10月17日(金) |
ブダペスト秋フェスティバルのオープニングセレモニーの日。 会場であるA'B Biztosioという保険会社のオフィスへ、4時前に到着。 中では音響・照明などの設営やテレビ局が撮影の準備をしている。アンドレアの話ではニュースで放映されるかもとも事。 フェスティバルのスタッフは誰もいないみたい。待ち切れないので派遣のイベント会社のスタッフらしい人に直接アンドレアに交渉して貰ってスカンクの音の準備開始。 会議室らしき場所を借りて僕はメイクの準備。 18時開始。 一発目の出し物として登場。「021-WRINKLE」。スカンクの出すノイズを合図に客席から登場。 やや暗めの明かりである場所であった為か、TV局の撮影用のライトが急に向けられる。 段差を上ってステージとなっている場所へ。 側面奥には市長やフェスのスポンサーらしき人が椅子に座ってる。 そちらにもわざと何度か顔や視線を向けたり。あるものは状況に巻き込まなきゃね。人いじりではない方法で。 再び客席を通って退場。 PHOTO/ABE AKIKO メイクを落として会場に戻ると、市長の挨拶が行われている。 着物姿の松本が資料を配って宣伝活動。 保険会社前に出来たモニュメントの落成式の後、飲み物が出されて軽く一杯。 「面白かった。21日の公演に行く」と声を掛けてくれる御婦人もいる。 19時には早くも解散。20時からはフェスの演目が別の劇場で始まるからだ。 荷物を置きに一旦アパートへ戻る。 道路には相変わらず様々なゴミの山。アンドレアに聞いてみると、一年に一度何でも棄ててよい日との事。 それも2日間は置きっ放しで、欲しい人が持っていけるようになっているらしい。互助的なシステムでもあるのかな。 置き場は大分散らかって、でも収穫されて全体量は減っている感じ。トラックで大量に積んでいる姿も多い。宇野も昨日拾った黒いスカートを履いている。 Trafoという劇場にフェスの演目の一つである公演を観に出掛ける。 「Cirkuspiloterna」というストックホルムのグループの演目。ヌーヴォーシルク、新サーカスと聞いている。 廃墟で佇んでいたり、アクロバティックな体勢を取っている写真のフライヤーが印象的だ。 約300席の会場は満員。階段に座っている人々もいる。 開演。ヌーヴォーシルクという印象でも、フライヤーから受けた退廃的な感じでもなく、結構ベタな大道芸かな。 デッキブラシを操る芸、ドクター中松を彷佛とさせるジャンピングシューズ。 背が低くて帽子を被ったちょっと気障なボール使いの男、急にアクロバティックな動きや芸達者振りを発揮するよぼよぼの爺さん(に扮した男)、キャラもお馴染み、万国共通。空中ブランコ。緩やかなホンワカとした時間が続く。 観客の楽しもうとする姿勢も凄い。大盛り上がりの会場。カーテンコールが延々と続く。 決して凄く好みという訳ではないのだが、こちらもちょっと楽しい気分に。「いいとも」状態とは違う。何だろう。 スカンクと朝4時近くまで、今年の欧州ツアーのスタッフワークや我々が望む関係性について言葉を交わす。 |
2003年10月16日(木) |
午後から近くのホテル内にあるゲッレールト温泉に出掛ける。 渡された薄いビニールの水泳帽を被ったちょっと間抜けな格好でプールで軽く泳いだり、ゆっくりと湯に使って自分で入念に身体を揉みほぐす。 最後にマッサージを受けてみる。 このマッサージ、人によって全然内容が違ったみたい。 僕は全身を軽く触られた感じ、女性陣は乳液を付けられてのマッサージ、スカンクは固形の石鹸らしきもので全身をヌルヌルにされてマッサージ&洗浄され、最後にホースで水を掛けられて終了だったらしい。何故だ? レストランでブダペスト秋のフェスティバルのフライヤーを発見。 ここでも「014-SCAR」の写真がカラーで使われている。 暗くなった街の路上には、家具等の粗大ゴミや衣類、ドア、コンクリートの塊まであらゆるゴミが出されている。粗大ゴミの日? 捨てられたものを物色する人達も多い。店員のいないフリーマーケットのような感じ。 宇野が黒いスカートを拾って、早速アパートで洗濯。 22時にMU-Theaterへ。 ハンガリー人の一人芝居を観せて貰う事になっているのだ。 20時からがハンガリー語、22時からが英語での上演との事。沼の中で60数日間過ごした日本人の話だとゾルタンには説明されている。 会場に入る。 雛壇の客席は黒幕で隠され無くなっている。僕ら観客はステージの上に進む。 スモークと青く薄暗い照明の会場の床面には水が張られていて、この水溜まりの上で立って若しくは歩きながらの鑑賞。中々良い雰囲気。 こんな水溜まりの中でのパフォーマンスも面白そう。自分だったらこのシチュエーションをどう使おうかついつい考える。 天井からは15個位、正方形のアクリル板が吊るされていて、そのアクリル板の上にはある所には生活用品、ある所には動物の死骸が置かれ、ある所には水の波紋の映像が投影されていたりする。 中央の一番大きなアクリル板に沼で段々と衰弱していく演技をする男の映像が流れる。 アクリル板を通過して、濡れた床面の奥底にも映像が写って見える。これが沼の底か。 いつパフォーマーが生で登場するのかと思っていると、最後まで映像のみで押し切られる。インスタレーションといった趣きか。 ある時間を観客に自由にさせ過ぎず、半強制的に約束するインスタレーションのあり方は良い。 |
2003年10月15日(水) |
オフ日。各自、自由行動。 スカンク、宇野、松本は市場に買い出しに出掛けてる。僕や安部は昼過ぎまで就寝。 起きてからたまっていたこの日記のメモを文章化、HTML化して、夕刻過ぎにネットカフェからアップする。 夜、アパートに帰る。公演にもちょっと間が開いて、少しだけ緩み気味になっている皆の気分に注意を。 安部、宇野は下見を経て変更した仕込み図を描き、スカンクは客入れ時の音楽を作る。 |
2003年10月14日(火) |
11時にアパートを出発して劇場である「MU-Theater」の下見へ。 宿泊先が違う雷太さん、コウソクさん、梅田さんを最寄り駅で待つも中々来ない。 約20分遅れで彼等が到着。滅多に来ない切符の検札に引っ掛かって一旦降りたとの事。 ここの人達は注意ポイント以外は殆ど切符を買わずに無賃乗車している様子。アンドレアやゾルタンの昨日からの案内もずっとそんな調子だ。 更に検札員は旅行者だと思うと、法外な反則金を要求して自分のポケットに入れるから、その際は言葉がわからない振りをして逃げ切るようにとアンドレアに言われていた。本当かい? コウソクさん達が逃げ切った事が判明すると、ゾルタンは「良くやった!」と笑顔。 劇場に到着。 フライヤーが置いてある。「ブダプスト秋のフェスティバル」は市内各地で行われる舞台、音楽、美術等々の総称のかなり大きなイベントである事が判明。 我々の公演は、別会場で行われるスティーブ・ライヒのコンサートと同時刻みたいだ。 ゾルタンの話では日本のアートはユニークで皆興味津々だとの事。北野や黒沢の映画は来てもLIVEものは中々無いので余計皆楽しみにしていると。 気合いが入る。そして、僕らはちゃんと自信を持ってもっともっと堂々としていなければいけないね。駄目な部分を探して突き合ってる日本の状況は糞喰らえだ。 ステージを見せて貰う。奥に頑丈そうな白壁がある。 「014-SCAR」「011-DOT」「012-RAG」の予定だったが、これは「016-WALL」が出来そう。 次のアポがあるらしく、詳しい下見は出来ぬまま今度はオープニングセレモニーが行われるという保険会社のロビーへ。 フェスティバルの関係者と打ち合わせ。記者や財団関係者が集まるというセレモニーとの事。 市長の挨拶等と共に、僕に短いパフォーマンスを行ってくれないかとの要請。 比較的セレモニーに馴染みそうな「024-MAXI」か、インパクトを残せそうな「021-WRINKLE」かを思案。 キャラを濃く変型して「024-MAXI」?照明効果で作ってきた部分を変型して「021-WRINKLE」? 照明機材は使えない。客席内をうろつくようなシーンを入れた特殊ヴァージョンの「021-WRINKLE」にする。 メイク場所、はける場所があるか等は改めてチェックがいる。 PHOTO/ABE AKIKO 昼食後、MU-Theaterへ戻る。 テクニカルのフェレンツと音響、照明、映像等々の細かな打ち合せ。 黒幕を稼動させる為の綱元が無い。カーテンを閉めるように手動での操作となる。 大きな3枚の黒幕を素早く開閉する為には2人スタッフが必要だ。ゾルタン経由で劇場の人に、人員の要請。 「016-WALL」に必要な追加機材も何とかはなりそう。ゾルタンも変更に関して何ら問題はないと。 数日後に到着予定の、同日上演のNomade~sの皆さんの了解が得られれば4作品でいく事にする。 欧州ツアーも前半戦が終わり、ちょっと疲れが出たのかやや風邪気味。 |
2003年10月13日(月) |
昼過ぎにアンドレアと一緒に昨日のインターネットカフェへ。 詳しい店員にIPアドレス等の情報を聞いて接続成功。これでこの日記等のHPの更新も出来そう。これまでは時間に余り余裕の無い国でしかネット環境が無かったからなあ。 サップがK-1で反則負け、新日にも出た事を知る。邪道がJrチャンプかおめでと。でも返上タイガーの立場は?何故か、真壁×TOAが気になったりして。 近くの「GALAXY SPORTS」というスポーツ店でで海パンを購入。5600フォリント。約2800円。 勿論、海水浴の為では無い。温泉用。ハンガリーには温泉が多い。公衆浴場で極部を隠すのはここのルールらしいので必要になったのだ。 普段、風呂は非常に退屈で本を持っていかないと情報切れを起こしてしまいつかっていられない位。即ち温泉への興味はゼロに近い。日本でも2回位付き合いで行った事があるだけ。それらの時もやっぱりすぐ退屈した。 今回、海パンを購入してまで温泉に行こうとしているのは、疲れ気味の身体、特に腿の修復の為。これも仕事の内さ。 ブダペスト東駅へ。出張から帰ってくる筈のブダペストのプロデューサーのゾルタンや、今日ウィーンから到着予定の石川雷太さん、コウソクさん、梅田宏明さんを迎えに。 薄暗い駅でコーヒーを飲みながら皆を待つ。ゾルタンが到着。挨拶。穏やかそうな年輩の男性だ。一度だけお会いした事のある新宿の劇場タイニイアリスの丹羽さんを彷佛とさせる風貌。 しかし、他の日本人一行が来る気配は無い。ゾルタンが駅員に聞きに行く。どうやら駅が違ったらしい。慌てて7駅ほど離れたブダペスト南駅へ移動。 雷太さん、コウソクさんと無事再会。初対面の梅田さんと挨拶。 ゾルタンから我々が参加するブダペスト秋のフェスティバルのオープニングセレモニーが保険会社のロビーで17日にある事を聞く。 照明などの設備は無いのだけれど、可能であれば我々に10分程度何かパフォーマンスをやってくれないかとの話。 ここでは時間が余っていたので有り難い話だ。戦略を練る。 ゾルタンに案内されたレストランで食事。彼は帰国直後で疲れているらしく案内のみで帰宅。 郷土料理と噂のトカイワインを賞味。 アパートに戻って、今日はずっと別行動をしていたスカンク、宇野、安部と再会。 ワインが開いてウォッカに移行して暫くで終了。就寝。 夜中にトイレの為起きる。そのまま間違えてスカンクのベッドへ。 「丹野さん〜違いますよ〜」というスカンクの悲鳴。スカンクの身体を乗り越えて自分のベッドへ何とか戻る。 ごめんね、スカンク。 |
2003年10月12日(日) |
朝、配給されたコーヒーを飲みながら、列車外を眺めていると、ウィーンに停車。既にちょっと懐かしい感じがある風景をながめながら列車は進む。 予定より1時間半程度遅れた昼1時頃にブダプスト東駅に到着。 一つ手前の駅名が非常に似ていて、あやうく降りそうになって駅員に止められる。 パケツリレー方式で急いで荷物を降ろして、それらを乗せるカートと迎えに来てくれている人を探す。 カートは無い。しかし、やや待ちくたびれた風の迎えのアンドレアとは無事合流。 彼女は我々らフェスティバルに参加する日本人グループの通訳として派遣されてきたブダペストの大学で日本語を学んでいる学生だ。 取り急ぎ滞在先となるアパートに案内されて荷物を置く。 頂いたブダペストの情報誌に「014-SCAR」の写真。2週間前ほど前までは町中の広告塔にこの傷メイクの写真が貼られていたとの事。 ブダペストの街へと出る。レストランでグラーシュ等のスープ料理にありつく。 アンドレアの句読点の少ない早口の日本語で、交通機関や名所の説明を矢継ぎ早に受ける。聞きながら情報を取捨選択していかないと何も覚えられないよ・・・。 日本語で会話出来る事は非常に有り難い。でも、婉曲な物言いや敬語の使い方までは完璧ではないので、失礼ながら時々不審に思ってしまう事もある。つたない英語同士の方が楽かな何て考えも起きてしまう。う〜ん、言葉のコミュニュケーションってやっぱり難題があるなあ。贅沢な悩みだけど。 僕は英語は恥ずかしながら大して話せない。でも今年は英語に対する認識が随分変わった。 最早ネイティブが使う以外の英語はエスペラント語みたいなもので、各国の人が取り敢えず共通にし易いものとして使うもの。 ドイツの人はドイツ訛りで話すし、インドの人はインド訛りで話す。それで充分。 僕も日本訛り。それで良いと思った時から、前よりは言葉を発せられるようになった。 アンドレアの案内でブダプストの街を散策。 ドナウ河へ。ウィーンで見たドナウよりずっと綺麗だ。 ブダペストの街は街灯がやや暗い感じ。でも以前行った事のあるポーランドやリトアニアや東ベルリンほどは重い印象は無い。かといって西欧ほど賑やかでもない。 インターネットカフェにいって自分のコンピュータを繋いでみるも、繋がらない。 明日なら詳しい人がいるとの事。改めてチャレンジする事に。 ネットカフェにいた白人の旅行者に、どこか良いナイトスポットは無いか?と尋ねられる。 僕らも今日着いたばかりです。知りません。悪しからず。 |
2003年10月11日(土) |
ブダペストへの移動日。 今年はベルンの街を散策する時間が殆どなかったので、出発前の時間を利用して街へと出掛ける。 大聖堂の中へ初めて入る。石造りの非常に細かい建築物。 人間達の彫刻は左側が善人、右側が悪人とキリストさんが決めた通りに厳格に別れているそう。左は退屈そうな世の中だなあ。造型物のビジュアル的にも右が好き。 一緒に散歩しているスカンクと宇野がまだ行っていないという事なので、僕としては3年連続の熊公園へ。 最初に見た時には単なる転がった固まりでしかなかった熊は、来る度に痩せて動きが早くなっている。しかし何故僕は毎年熊を見てるのだろう・・・。 近くのカフェで籐家具に座って優雅にビールを飲んだら、さて宿に戻って出発準備だ。 サンドロ、ステファニー、ヤンらとお別れの挨拶。サンドロが良いスイス製の良い十得ナイフをくれる。これ欲しかったんだ。しかも大好きなサンドロのプレゼントだ。有難う。 ベルン駅から借りてきたカートに荷物を詰んで20時過ぎに駅へ。チューリッヒ行きの列車は空いていて、荷物も楽勝。チューリッヒでブダペスト行きの国際列車に乗り換え。指定の寝台車の室内へ。 おい、予想より相当狭いぞ。パンフの写真の豪華さはなんだったんだ。 6人1室なので、我々の他にもう一人いる旅行者に迷惑をかけぬよう気を使いながら、何とか荷物を押し込む。 ベッドが一つ潰れる。おい何が「新幹線じゃないんだから」だ。 このままでは誰かが寝れなくなるので、パズルのように荷物の置き方を考える。 3人のベッドの足元にスーツケースを置いて、その上に足を載せて横になる方法で何とかクリア。皆は早々に就寝。 3段ベッドの天井は非常に低くて、座るのも頭がつかえるくらいだから、寝るしかないのだけれど。 僕はそんな強制的に寝させられるような空間のあり方が気に入らず、暫くビールを飲んだり、室外に出て煙草をすったりと悪あがき。 バスとどちらが快適かは微妙な所だなあ。 |
2003年10月10日(金) |
昨日会ったオットーの友人のフランスからたまたま来ていたというアンクレールと会場下のカフェで14時に待ち合わせ。 ベルンの劇場「Schlachthaus Theater」を案内して貰う。 不躾な急な我々の訪問にも関わらず、劇場のプロデューサーが時間をとってくれる。 ここは16世紀の建造物で元屠殺場だったらしい。コンクリート剥き出しの壁が非常に趣がある130人くらいのキャパの劇場。 インディペンデントな演目を多く行っているとの事。良いスペースだ。劇場のプロデューサーに資料を渡して歓談。 さて後の気がかりは次のブタペスト行きの移動手段の手配だ。 大聖堂の横にある公園でコーヒーを飲み乍ら、アンクレールにヘルプして貰って電話。 松本も自力でバス会社のユーロラインに何度も電話しているのだが、英語を話せる人が少なく「Please call again.ガチャ・・・」と切られてしまう事が多いのだ。 アンクレールの話では、ここはフランス語と独自に進化?したスイス方言のドイツ語が流通しているとの事。ここでドイツ語を覚えたら大変な事になるよと。 何とかバスの手配完了。松本が日本語が話せるブダペストの担当者に電話で到着予定を伝える。「我々は○○時にあなた方の所へ着くであろう。」おい、日本語が英語風味で下手になってるぞ。 バスはチューリッヒからの発車。ベルンからチューリッヒへの移動がまだ残っている。普通の列車では我々の大荷物は大迷惑だしなあ。かといってミニバスを雇うと4万円弱もしてしまう事が判明。 ベルン駅で改めて色々と情報収集。ブタペスト行きの寝台列車がある。 凄い量の荷物と説明するも、日本の新幹線とは違うから大丈夫だと説明される。これならスペースも広いらいし、荷物も置けそう。予定変更、列車移動にする。 昨日会ったばかりなのに、色々と世話をしてくれたアンクレールに大感謝。 一旦彼女と別れて、夜に再度ベルリンから車で向かっている彼女の兄弟とオットーを含めて、合流して飲みに行く事に。 オットーの案内で会場近くの店へ。が、まだ開いていない。早すぎると入店を断られる。ってもう23時なんだけど。 子供を食べる豚の怪物の像を眺めながら、夜のベルンの街を歩く。 禿げた2人のDJがギターを弾く真似をしながら、KISSのラビンユーベイビー等をかける80年代全開な年齢層の高いクラブで一杯飲んだ後、先程開いていなかった店へ再度。 会員制の店なのだが、日本から来たパフォーマーとオットーが説明すると入れてくれる。 店にあったビリヤードを生まれて初めてやる。2個入った。 PHOTO/otto muehlethaler |
2003年10月09日(木) |
ベルン公演の本番日。昼過ぎから作業開始。 スカンクは弁髪以外の部分を刈って臨戦体勢は万全。 午後に調光卓が戻ってくるが、何の問題も無かったとの事。 どうやら、灯体と調光卓を繋ぐディマーの方が問題らしい。全ての電源を一旦落として修理が始まる。われわれの作業もストップ。まずい時間が無い。 16時過ぎにようやく修理が完了。これからムービングのプログラムや昨日残した作業を済ませねば。まずい時間が無い。 ここでは新作リメークの上演が中心なのだが、もうゲネプロをやる時間は無さそう。簡単なリハを怒号を響かせながらスタート。まずい時間が無い。 雷太さん、コウソクさんも設営を手伝ってくれる。40分押しで開場。 「010-SKIN 」「015-PETAL」「025-CROW」「024-MAXI」「011-DOT」を上演。 一作毎に拍手や歓声もあり、反応は上々。 昨年、一昨年と手伝ってくれた照明のステファニーも新作を凄く喜んでくれる。 カメラマンのオットーと再会。公演を非常に楽しんでくれたみたい。良かった。彼は3年続けて写真を撮りにきてくれている。この所のフライヤーの写真や宣伝写真は殆どが彼の手によるものだ。 正直今年は宣伝が充分ではなかったらしく、動員は昨年を下回ってる。 オットーから、ベルンでの今後についてサジェスションを受ける。 ここReithalleは凄く良い雰囲気を持っている会場だし、サンドロが面白いコンサートをプロデュースしている場所だと。しかし、周辺はドラックの売人やパトカーが常に追い駆けっこをしている場所の為、非常に人々が来難い面はあると。 今日の公演を観に来てくれたオットーの友人のアンクレールが明日、ベルンの劇場を案内してくれる事に。 我々もこの会場とここの人々は非常に好きなので、ここを含めて両方で公演が出来たら、相互作用としても良いな。 会場ではここのボスのサンドロのDJが続く。「鉄男」のサントラとか。 プレゼントした「光束夜」「BORIS」そしてスカンクのバンド「MEXI」のCDを凄く喜んでくれる。 サンドロも動員の事は気にしていて、来年は3日連続だなんて言ってる。 皆は、疲れやその他の事情で会場内のソファーで朦朧と眠ってる。 |
2003年10月08日(水) |
ベルン公演の仕込み日。 昨年も担当だった音響のヤンと多分初対面の照明のローラとの作業。 ローラは昨年の我々の公演を観てくれたらしく、今回の担当を志願してくれたらしい。。我々の希望の仕込みに対しても自分の意見を積極的に言ってくる。やはり議論と説明好きだ。 我々の間でも、リトアニアを筆頭に時間が無い中の作業で、意見交換が少なくなりがちである事を修正しようと話す。 僕らの作業は誰に奉仕する関係でも無いのだから、互いがやりたい事を言葉で伝え合って接点を探らなきゃね。 用意して貰っていたミラーボールの鏡片が大概剥がれている。 聞いてみると、もう一つ別のミラーボールの鏡片を外してボンドで貼ってくれとの事。流石、Reithalle。 ここは会場中にLANが通っている。ウィーンで繋げなかったネットに久々に接続。 リトアニアのビルートから、公演への感謝の言葉と翌日以降記事がたくさん出ているとのメールが届いている。 音響のジョナスからもサウンドトラックのCDが欲しいとメールが。嬉しいよなあ。 Reithalleでの仕込みはスタッフ達の協力と何より既知の場所であるせいか非常に順調に進行。 こちらのスタッフの一部は合法のマリファナを吸い、ビールのみ乍らの作業だけど。 ローラは上方の鉄筋によじ登り、長いハシゴを楽々と操作する非常にパワフルな女性。 ヤンとサウンドチェック。途中、音量を出し過ぎたかヤンがレベルメーターを持ってくる。 これが中々便利。無論体感で判断すべきだが、うるさいと感じた時のレベルメーターの数字は体感のそれとほとんど同様に大きな数値を示している。 これも感覚を数値という言語に変換する事で問題を解決していく作業か。 サウンドチェックが終わり、本格的な照明シュート開始という所で大トラブル。 調光卓が不調で点灯する筈の照明がつかなかったり、その逆が起きたりする。 ローラは今日は20時30分までしか会場にいられないとの事で、酷く焦って原因を探っている。 結局、調光卓は直らず、深夜の1時に更に詳しい人を連れて帰ってくるとの事。 我々は調光卓を通さずに出来る限りのシュートを行う事に。 この会場は昼間は外光が入る為、どうしても暗い内に照明のチェックをしたいのだ。 我々の作業が続く中、ローラともう一人の照明のゲリーが深夜に到着。 調光卓を調べるが、3時過ぎにギブアップ。家に持ち帰って徹夜で直すとの事。 我々は結局朝5時まで作業をして、就寝。皆、本当に深夜までご苦労様。 PHOTO/ABE AKIKO |
2003年10月07日(火) |
スイスへの移動日。 朝5時半に起床。中心地から少し離れたバスの発着場へタクシーに荷物を詰め込んで移動。7時発のバスでベルンへと向かう。 途中、3〜4箇所で休憩を挟んで約13時間のドライブ。機材を抱えたままのスカンクの腰が心配だ。奴は数年前に崖から転落して腰を骨折した経歴があり、ここが悪いのだ。 20時頃に雨のベルンに到着。バスが停まった所は公演会場のライブハウス&宿泊場所の目の前。 取り敢えず、荷物を近くの屋根のある場所に降ろして、僕と松本で3年連続となる馴染みの会場Reithalleへ。 正直、この周辺は治安の良い場所ではないので、荷物番をする組にはスカンクについて貰う。 すぐ脇には薬の売人達。残ったスカンクらに声を掛けてくる。 僕らもレストランの外で飲酒中の人達の「ニーハオ」との御挨拶の声をやり過ごしつつ、会場へ。ボスのサンドロと1年ぶりの再会。 中に入ると今日はここのスタッフが全員集合してのミーティングとの事。顔見知りや初めてのスタッフとの挨拶。 照明機材の修理中らしく、明日何時からの作業を開始するかとの問い。ここは昼は日光が入ってしまう為、照明のチェックがしづらい。深夜まで作業をしたいので、開始をやや遅く12時にする。 それまでには直しておくとの答え。 馴染みのお気に入りの手製2段ベッド風雑魚寝部屋に荷物を置いて、スイスの会場の視察の為に先に飛行機で到着していたErehwonの2人を迎えにベルン駅へ。 すると、パトカーが我々のいる歩道上で行く手を遮るように急停車。危うく轢かれそうになる。 近くにいた連中が 走り逃げていく。売人達だ。 パトカーは歩道上で結構なスピードでUターンして彼等を追っていく。 ベルン駅のカフェでErwhwonの2人と再会。 隣の駅ビルの本屋に今回の僕のポストカードが置いてある。以前に渡していた日本での様々な公演のフライヤーをコラージュして作ってくれたらしい。 ベルンの外食は非常に高いので、明日からは自炊中心の予定。閉店間際のスーパーで明日以降の食料を買い出しして、今日だけはタイ料理屋へ。 明日の作業を打合せながら食事。帰るとまだここのスタッフは大勢でミーティング中。ここの人達は非常に議論好きだ。 サンドロの話では今日は朝5時位までは続きそうとの事。 |
2003年10月06日(月) |
昨日急遽ヘルマン宅にMichiさんから電話で希望があり、午前中から写真撮影をする事に。 Michiさんはダンサーであり、写真もやっているのだ。ペンションのドアの前や駐車場で撮影。 簡潔でサクサクとしたMichiさんの指示で気持ちよく進んでいく。 安部がフォトセッションをしている我々を写真に収めている。 PHOTO/ABE AKIKO 今日、dietheaterでゲネプロのMichiさんと別れ、ベルンへ移動する為のユーロラインのバスのチケットを取りに地下鉄に乗る。 到着した筈が、バス会社の姿は影も形も無い。歩いていた人に訪ねると2ヶ月位まではあった筈なのに・・・と。どうやら移転したらしい。 取り敢えず、近所のオフィスの人に移転先を聞く。移転先はちょっと郊外だ。次の予定があるので、取り敢えずペンションの方向へ戻る。 公演も見に来てくれた松本の知人の娘さんのLisaさんとシュニッツェル料理の店で食事。昼からワインを飲んだ安部の顔がまだらに変色。これ以来、彼女は「まだら」というニックネームが付く事となる。 Lisaさんはウィーンにもう3年ほど在住されているオーストリア航空のスチュワーデス。 彼女がバスのチケットウンターまで付き合ってくれる。綺麗な発音の英語で交渉。無事ゲット。感謝です。 街に戻ると、偶然コンタクトを落として探している宇野&スカンク組と出会す。 ヴァージンでdietheaterの音響のエワードがかけていた彼曰くオーストリアの「デストランスメタルバンド」の「ピラニア」のCDを探すもそんなバンドは無いと店員に言い切られる。 一人で、近くのパンクショップへ。ここにも「ピラニア」は無い。 オーストリアバンドのコーナーで2枚をジャケ買い。入れ墨と赤髪端ピアスの店員にお金を払う。 すぐに宿に戻ってMacで聞いてみると中々良い。デスメタルとハードコアの間位の音にのって宇野が洗濯物を畳む。 気になって止めたもう1枚も買いにパンク屋へ戻る。 夜は、Michiさんの出演するサスキアというコレオグラファーの作品のゲネを見せて貰いにdietheaterへ。 白リノの舞台、フラットな照明が20分掛けて少しずつ明るくなって行く感じが気持ち良い。 ペンションに戻って明日の移動に備えて荷物詰めを開始。 これが一番面倒だ。皆「ファッキンパッキン」と叫んでる。 スカンクはスイス公演用の客入れ時の音楽を作りながら、疲れか酔いか途中で雑になってくる自分の作業が許せなくなったらしく就寝。 おい、君の荷物を詰めないとパッキングは終了しないぞー。皆が入れ替わり立ち替わりスカンクを起こしに来ている。 |
2003年10月05日(日) |
フェスティバルの制作をしているベッティーナの旦那さんで、ウィーン在住の日本人ダンサーMichiさんの案内で、石川雷太さん、コウソクさん、松本、僕は美術館MUMOKへ。 丁度、ウィーンアクショニズム、フルクサス、ポップアートなど特集をやっているのだ。 ウィーンに着いた日から、空中を跳ぶイブ・クラインと身体を頭から縦に半分に割られたメイクのギュンター・ブラスの写真が載ったフライヤーを目撃していて、気になっていた催し。 特に1階のウィーンアクショニズムのコーナーが圧巻。 ヘルマン・ニッチ、オットー・ミュール、ギュンター・ブラスらの作品や当時のパフォーマンスの映像がたくさんある。 動物の肉や内臓、血をを使ったヘルマン・ニッチの赤の鮮やかさ、裸体を縛り、血糊、粉末、ジェル、塗料等々を浴びせるオットー・ミュールやギュンター・ブラスのビデオ。 ビジュアルも好きだし、コンセプチュアルのみに陥らないサービス精神も凄い。 僕がパフォーマンスやアートに興味を覚えた端緒を思い出す。初心に返る。面白い。時間を忘れて見続ける。大ヒット。 アクショニズムは60年代に欧州全般で起きたアートの一展開かと思っていたら、ウィーンのみで起こった極地的なシーンであった事を雷太さんに教えて貰う。 実は以前彼の家で希少なヘルマン・ニッチのパフォーマンスのビデオを見せて貰った事もある。また見たいな。 しかし多少の年度差はあってもこの時期に日本でも舞踏を土方が始めたりと、直接な関係は無くとも、世界的に近しいかのような事が起こり出しているのだなあ。 ショップでヘルマン・ニッチの画集を2種類発見。購入しようとするが一つは売り切れ間近で在庫があまりない。 店員に交渉して見本まで売って貰って、僕と雷太さん、コウソクさんの分を何とか確保。 もう一つの画集も我々で買い占め。雷太さんは自分の見る分と保存版、友人にあげる分と重い袋を手にしてる。 カフェで軽食を取った後、再度入館してまたまたアクショニズムを堪能。いやあいつまでもいられますな。 しかし、血や内臓、体液、塗料その他諸々でグチャグチャの映像を高貴な美術館で皆静粛に見ているのも、妙な図。 ビールや煙草片手にラフに見たいなあ、などとまた場所の問題を思い起こす。 ペンションに戻って、別行動していたスカンク、宇野、安部と合流。非常に面白かった旨を話すと、皆慌てて閉館まであと30分位の美術館へ走る。明日、月曜は美術館は休みなのだ。 皆と再合流して、夜のウィーンの街へ。 シュテファン大聖堂やマリア・テレジア広場へ。写真撮りまくりで歩みがちっとも進まない雷太さんとコウソクさん。 ドナウ河へ。青き美しきドナウは見当たらず、感じは浅草・隅田川。 思わずアサヒビールの本社ビルのモニュメントを探す(嘘)。 ヘルマン宅のパーティーへ。 今、ヘルマン宅に泊まっているNomado~sの皆さんも調理をしてくださっている。 ヘルマンがKARASの宮田佳さんに習ったという豚汁を御馳走になる。 ヘルマンがMAK NITEでの公演写真のプリントとCDをくれる。気に入る。改めて写真とパフォーマンスで関係したい。 深夜2時30位まで飲んで、ペンションへ戻る。 |
2003年10月04日(土) |
スタッフの皆は昨日の午前中などを利用して街に出たらしいけど、休息を取っていた僕はようやくゆっくりとカウナスの街を散策。 拳銃をウインドウショッピング。 昼にはもうここを出発だ。ギティスがホテルに来てくれて、別れの挨拶と来年の再開を約束。 名残惜しい。もう少しゆっくり滞在したり、フェスを見たかったのだが、ウィーン行きの飛行機は2日に1本しかないらしいし、止むを得ない。 ここのように僕らのような仕事を期待してくれる人が多くいて、本当に欲してくれ、楽しんでくれる人々の前で上演出来るのは何より幸せな事だ。 車でヴィリニュスへ。そして空路ウィーンへ戻る。 ペンションに戻って、オーナーのおばちゃんと再会。以前とは違う部屋に案内される。 実は僕とスカンクの2人部屋は非常に狭くて、あれ以下の面積になる事はないだろうと話していたのだが・・・更に狭くなっていた・・・ 荷物を置いて、dietheaterへ。Nomade~sの皆さんの公演を見せて貰う。 終了後、スタッフ3人組のエワード、ゲティ、クリストフと再会。僕らとの2日間の本番は仕事も内容も凄く楽しかったとゲティが宇野に話してくれたらしい。嬉しい。 現地のスタッフと如何に理解し合って、関係出来るかはツアーの醍醐味の一つだ。だから僕らは常に成るべく話したり、頼ったりするように心掛けている。 レストランでフェスティバルのスタッフ、日本・オーストリアの出演者皆で食事。 |
2003年10月03日(金) |
リトアニア・カウナス公演の本番日。 13時に会場入り。もっと早くから準備を始めたいが、それまでは同日上演のフィンランドのグループの持ち時間。 まずはフィンランドのグループと舞台の使い方について打ち合せ。 照明音響映像のセッティングを開始。英語のわかる現地のスタッフは限られている。何とか話す事が出来る人を掴まえての仕込みが続く。 当然のように時間は無くなる。最後の方は日本語とリトアニア語の叫びが劇場内で交錯している。 リハーサルも照明の詳しいチェックも出来ぬまま時間が来る。 しかも会場を待ち切れない観客達がセキリュティーのいなかった2階席に勝手に入ってしまっている。この状況的にも、時間的にももう準備は続けられない。 予定の18時開演が押している。 何度も手拍子や足踏みでの開演の催促が自然発生的に起こる。ロックコンサートの会場のよう。 500席は完全に埋まっていて、立ち見もいるようだ。観衆約600人。恐らくソールドアウトだろう。 18時30分。観衆の催促の最高潮で丁度「021-WRINKLE」の特殊メイク完了。 司会の男性が舞台上に上がる。待ち浴びた観客から彼に大声援。 司会者と入れ替わるようにスカンクが舞台上に上がり、間を開けず「021-WRINKLE」の音をスタート。 実は照明の仕込み量の多いこの作品は、今回の条件では上演予定はなかった為、衣装をウィーンに置いてきてしまっている。 しかし会場と状況を見ると、どうしても「021-WRINKLE」のメイクと音で始めるのが適しているとしか思えない。 今日は衣装は「016-WALL」の赤いロングコートで急場を凌ぐ。 続いて「015-PETAL」。一作品毎に拍手と歓声が起こる。 「012-RAG」では豪華そうなシャンデリアが点灯する客席内から登場。歓声、話し声、笑い声等々非常にざわつく客席。 しかし舞台上に上がってスカンクのギターと僕の動き、宇野の照明による世界に移行すると、グッとしまった様子で舞台を見てくれる。 最後に「011-DOT」。エンディングの映像のENDの文字と同時に挨拶に出ると、大歓声。 正直、ぶっつけ本番で、様々なミスもあり、今日の上演は精度的には高いとは言えないだろう。しかしこの反応、観客との関係においてはてらい無く大大成功と言って良いと思う。 しかし日本ではこんな状況でやる事はまずないな。人間やれば出来るもんだ。また一つ鍛えられました。メンバー全員が。 フィンランドのグループの終演後、ロビーでパーティー。 ビルートも喜んでくれてるみたい。つたない英語で話し掛けてきてくれる。 しかし話し掛けて来る人は少ない。反応は良かった筈なのに何故??? 答えは簡単だった。皆リトアニア語しか話せないのだ。 友達に頼まれたと、ギティスが持ってきたパンフにサイン。日本のフライヤーもプレゼント。これにもサイン。 英語で僕らとリトアニアの人達の掛け橋になってくれているギティスは凄く人気者らしく、周囲にいつも大勢の女の子達がいる。 PHOTO/ABE AKIKO 彼等が来年も是非来て欲しい。自分達学生の仲間で今から企画や準備もするからと言ってくれる。 ギティスの案内で、裏通りのクラブへ連れていって貰う。 厳重なセキュリティーのボディチェック。ヒップホップ。 スカンクが女の子達に囲まれている。 PHOTO/ABE AKIKO |
2003年10月02日(木) |
リトアニアへの移動日。 荷物の一部をウィーンでの滞在先のペンションに預かってもらって、空港へ。 欧州間の飛行機は機体が小さく我々の大荷物を乗せるには厳しいと判断したからだ。減らした荷物で問題なくチェックイン。ウィーンから約2時間程のフライトで、リトアニアの首都ヴィリニュスの空港に着。 迎えに来てくれていたのは19歳の文化政策を大学で専攻しているというギティス。彼はロンドンへの留学経験があり、英語が話せる。 車で2番目の人口の都市カウナスへ。 荷物をホテルに置いて、早速劇場を見に街へ出掛ける。 カウナスの目抜き通りは意外に新しい街並。 劇場に到着と思いきや、若者の集団に出会す。その内の数人が走ってきてスカンクが確保され写真を撮られる。 次は僕が捕まる。集団は2〜30人位に膨れ上がり、大写真撮影大会。リトアニア語で何やら話し掛けられる。 ギティスの話では、彼等は皆明日の公演の事を知っていて、楽しみにしているそう。 イベントが少ないし、リトアニア、ましてやカウナスには他の欧州の国からもあまりアーティストは来ないそう。 まして日本という非常に遠い国からの訪問者に興味津々との事。 街には軍人や軍人風の人々が多い。ミルコ・クロコップとシリル・アビディのような鋭い視線の男達が大勢。 日本人はおろか、アジア人も街には全くいない。人々の珍しそうな視線を浴びる。 劇場へ入る。 ここでは、13th International Festival of Modern Danceというフェスティバルへの参加だ。 フェスティバルは今日が初日で、その演目を観る事に。 下見を兼ねて、一般の観客より一足先に会場に入らせて貰う。500席位はある非常に古い劇場だ。入り口には屈強そうなセキリュティーが何人も配置されている。 実はここの劇場の情報は殆ど送られていなかった。 無論、資料請求はしたのだが、届いたのは会場の寸法さえ記載されていない照明の仕込み図とフェスティバルの出演者の情報のみ。 しかも何組かのグループは渡航費が下りず、公演不能になっている。 電話もしたのだが、フェスティバルの担当者も英語は余り話せない為、情報収集が非常に困難だったのだ。 劇場内を嘗め尽くすように見まくって、情報をインプット。 フェスティバルの開幕。 500席の客席も2/3は埋まっている。 司会者の口上に続き、市長の挨拶、そしてプロデューサーのビルートの挨拶。このビルートが我々を招いてくれた人物だ。 今日はオーストリアのダンサーのソロ、リトアニアのグループのデュオ、そしてビルートのカンパニー「AURA」の3組の公演。 「AURA」は15人以上出演者がいる。踊る人々の周囲を淡々と歩き続ける人々がいたり、その人数がいつの間にか増えたり減ったりしていく。 この一見関係のない行為が同時に進行する事によって、踊りも歩みも単独では見えてこない情報となって提示される。 照明もカッターを使ったエッジの効いたクールな感じ。面白い。 休憩中に話し掛けてきたのはスタッフのレイモンダ。 僕らの公演を、昨年パリで観てくれているらしい。 ちょっと固めのダンスフェスかなと思っていた所だったので、我々の事をよく知っていてくれた上で呼んでくれた事が確認出来て安心。 彼女の話では、僕らの公演がフェスの目玉的に宣伝されているとの事。全然知らなかったよ。 新聞等でも相当な情報が出ているらしい。 終演後、雨でずぶ濡れになりながら、レストランでリトアニアの郷土料理を御馳走になる。 ここで明日の公演に関するミーティング。 前述したように、ここの情報が余りになかった為、演目も曖昧にしか決めていなかった。 司会者や市長の挨拶から始まる上品な雰囲気を、僕らの方向に持っていくには一発目に激し目の作品がいる。 「021-WRINKLE」「011-DOT」「012-RAG」に一旦は決定。 ギティスと話していると、リトアニアの若者達が新しい音楽に非常に関心を持っている事。その期待は僕らに向けられている事を知る。 そう言われると意気に感じない訳にはいかない。 準備時間は非常に厳しいが、えーい1作品追加だ。 「021-WRINKLE」「015-PETAL」「012-RAG」「011-DOT」に決定。 明日は、フィンランドのグループと同日上演。当然、当日仕込み当日本番で、しかも2グループで時間をシェア。 我々に与えられた準備の時間は4時間30分のみ。とりわけ照明を仕込む宇野と安部は非常に厳しいだろうが、頑張ってくれ。 |
2003年10月01日(水) |
ウィーンのdietheaterでの公演の2日目。 15時に会場入り。3日からの公演の稽古中のNomade~sの皆さんとバトンタッチで劇場を使用。 照明の吊り足し作業。エワード、ゲティ、クリストフの3人が来た所で、昨日出た椅子を撤去するアイデアについて彼等にも意見を聞く。 dietheaterやimagetanzというものが持つイメージや観客層、広報のされ方などに関して、もっと把握したいからだ。 もっとラフな空間にしたいという意見は理解してくれる。 しかし椅子はあった方が楽かも、服が汚れるのを気にする人もいるかも、いや若い人達は気にしないよと我々のスタッフも含めて侃々諤々。 まあ誰が観客として来るかはわからないので、決定打が出ないのは当然。 更に一つ問題が。その場合雛壇に直接座る事となるが、背中に面した部分は空洞となり危険性の面から許可が下りないかもしれないとの事。 クリストフが内線で上司のフランツに掛け合ってくれる。 ここでは非常灯も多少暗くする事は出来ても消灯は出来ない。以外と規制が厳しいのかも。 許可が出た。誰が観客として来るかはわからないのならば、余計に我々の姿勢を見せるべきだし、やらないが故の後悔は最悪だ。 撤去決定。会場前に皆がちょっと重い椅子を運び上げてくれる。 本番。 椅子の無い客席は、姿勢も自由度が上がるし、正面を強制されずらくて教室のような感じも薄まる。やはり良い感じ。 昨日の「MAK NITE」に来てくれた人達もいるのか、一作目の「021-WRINKLE」終了後すぐに歓声も起きたりする。 打撲した足も問題なく動く。 終演。ウィーンに着いた日に案内をしてくれた村田さんが御主人と共に速攻で楽屋に来て、抱き着いて喜んでくれる。 公演中は直ったかに思っていた足は、終わるとまた少し痛み出す。 |