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異色フリーペーパー「自慰行為」偏執長・緒方凶人のアングラ紀行
マントル対流記
Violent Paradise 丹野賢一
8BCpress 1997年6月号
緒方凶人
「眼球というのは、瞼という実にたよりないシールドしか持たない、むきだしの神経である。」
これは僕が1995年11月、東京・芝浦で行われた「M-6」なるイベントで初めて丹野賢一を目撃した際の感想である。
空間とアート、前衛オヴジェとも捉えられる舞台装置としての、または、彼の動きの媒介となる「もの」。音。光。そして丹野賢一自身の肉体。以上が彼の舞台を構成する要素である。
その他のそう余は一切ないと言っていいだろう。そこにはセリフやストーリーさえ無い。
“体とか「もの」とかってそれ自体で語っちゃってることってあるじゃないですか。それに興味があって始めたのがキッカケだから…。僕と「もの」の関係が成り立っていて、それで充分発信していることっていうのがあるんで、それ以外のセリフやストーリーとかはよけいな物だと思っているんですよ。”
したがって、彼の作品には物語りや感情を表現するといったドラマ性は無く、不確定要素を含んだドキュメントの丹野賢一をライヴで見ることになる。
“その瞬間で、「もの」と僕との関係、お客さんと僕との関係を取りたいと思っているから…。僕、構成は相当しているんですけど、動きも本番で一気に変えてしまってもいいと思ってる。その構成の部分を充分にやっておかないと、それは偶然に頼るだけになってしまう。”
彼はその活動をダンス・舞踏・演劇はおろか、パフォーマンスとも呼んでいないと言う。また、アート系・クラブ系など様々なジャンルのイベントにも参加している。
“別に片意地張って「人と違うことやってやろう」なんて思ってないし、僕の中からもっと単純に出て来たことが舞台で作品になってるんですよ。ただ、それを既成の「何とか」というシーンとか、ジャンルとかの枠に嵌め込むことで、活動を制限されたくない。と考えているし、生きる範囲を限定しちゃうってつまらないことじゃないですか。”
現在の彼は、本名・丹野賢一の名義でその活動を行っている。
“いわゆる生活レベルのことってどうでもいいんですよ。もちろん、食べなきゃ生きていけないし、まったく寝ないわけにはいかない。基本的にはいつも舞台のことばかり考えているし、舞台とプライヴェートなものの境界線ってないんですよ。当然、舞台では色んな物が濃縮されてますけど。”
舞台の上での破壊神のごとき行為を見せる丹野賢一も、僕の眼の前で一つ一つの言葉を選びながら話す丹野賢一も、彼自身の行動規範に従っている何ら変わらない同一の丹野賢一なのである。
6月20日より、彼は東京・中野のウエストエンドスタジオにて「001-BLOCK」の公演を行う。彼には再演という意識はなく、1997年の彼とBLOCKとの新たな関係による作品ということなのだろう。
彼の作品の前では、眼球はむきだしの神経でしかなく、我々は目撃者となる。そこには傍観者などという消極的な選択肢はない。