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日本発のダンスの試み ― 大音量とピンク
New York Times 2001年1月8日号
Anna Kisselgoff

ニューヨークタイムス PHOTO  日本の新しい、爆発するようなダンスシーンから生まれた、挑発的で自由な4つのカンパニーが、土曜の夜、日本のコンテンポラリー.ダンス.ショーケースで紹介された。

 この選び抜かれた実験的な作品を紹介するこの会は、ジャパン・ソサエティの例年の、それも楽しい行事となった。今回は、突飛で風変わりであり、またシリアスでもあり、生き生きとしたイメージを伝える作品が上演された。

 それらの内容は、ピンクのプラスチック・スーツを着た宇宙飛行士が、彼が復活する前に分解するというもの;穏やかなダンサーたちが、武術的なしぐさを使ってパートナーを危険なぐらいにジャブを打つもの;生気に満ち溢れた女性体操家たちが、さまざまなロープのトリックを使う作品;そして、解体された抱擁に関してのリレーションシップを扱う作品であった。

 過去のショーケース同様、参加カンパニーを選んだのは、実験ダンスのプロモーターであり、東京のアンクリエイティブ社長の永利真弓である。昨年のジョイス・シアターでセンセーションを起こした、H. Art Chaosもこのショーケースによって、ニューヨークに第一歩をしるしている。

 当日、エドワード・アルビーの姿も見かけられた会場は、第二のH. Art Chaosを求めてか満席だった。4つのカンパニーはそれぞれが異なっていたが、それでいてカオスのように、攻撃的な、あるいは生き生きとしたトーンを持っており、脱工業化社会の批判をほのめかしていた。大音響が欠かせない要素のようであった。

 また、日本の実験的ダンスが、もはやマース・カニンガムの作品や、舞踏と呼ばれる日本で始まった表現豊かなダンスのコピーではなくなってきたことも明らかであった。これらの影響はまだ形式や非線形の構成、数名の振付家の舞踏のトレーニングなどに、まだ多少は名残を見ることができた。

 しかし、現在の焦点は、ムーブメントと表現の新しい方法を発見することにある。土曜日のプログラムの内、2つのカンパニーは、非ダンスのムーブメント(ダンスらしくない動き)が、ダンスの作風・持ち味に変換されていた。

 Leni-Bassoを率いる北村明子は、武術的なしぐさをドラマティックな出会いに様式化した点が、最もすばらしかった。また、観客は喜んでいたが、若井田久美主宰のCAGRは、ロープ・その他、芸術的な体操の表現を越える必要があるだろう。(今回は、抜粋のみが上演された。)丹野賢一/Numbering Machineと伊藤キムのカンパニー、輝く未来は、更に印象的であった。それは彼らがよりダンス的だったからではなく、彼らの素材に対して、もっと確信を持っているからであった。

 本質的にこれらの作品はすべて、10年前、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)に登場し、再訪が望まれる、Karas 率いる勅使河原三郎が先鞭をつけた、思い切った組み立てのダンスである。

 丹野がもっともKarasに近いのは、身体がそれ自身から否定主義を取り去ったあと、精神的な再生を暗示させているからである。そのパワフルなソロ「011-DOT」において彼は、制服或いは宇宙服のピンク色パロディ服を着て、彼の口と目は黒に縁取られて登場する。
その場に根が生えたようになっている彼は、松本じろのディスコビートにあわせて体をたたきながら、彼自身の3つ(時には2つ)の影に向かって、さらに荒々しく体を動かしていく。

 彼をロボットと呼ぶのは単純すぎるだろう。彼の表情のしかめつらと感情を交えないジェスチャーは、この超現代的な姿の内側にある人間をにおわせている。
突然、映像が平らになった彼の抽象を表示し、小さなピンクの形をしたものがのたうちまわり、最後はばらばらになってしまう。

 後半の「012-RAG」では、松本のアンプギターが音の波を出している中、丹野は、目の粗いぼろぼろの布をまとい、グレイの髪をして、だんだんと疲れていく様子を見せ、斜めに悲しみの砂漠をふらふらと歩く。 舞踏のカタストロフィーと再生のサイクルが、新しい表現で独創的に言い換えられていた。

 「I Want to Hold You(抱きしめたい)」の短縮版において伊藤は、明るいランプの下、すばらしく支離滅裂なソロから始める。片方の腕で自らを抱きしめ、そして押しのけてしまう。それから4名の男性が4名の女性を抱擁から押しのけ、そして彼女たちを、まるで日課であるかのように、型にはまったように運んでいく。

 ここでは、新しいコンテクストの中のムーブメントは、念入りな構成のひとつである。3名の女性が斜めに座り、腕を伸ばす。もう1人の女性が同じことをすると、その動作は、彼女のパートナーを押しのける。しかし最後には、彼女は彼の抱擁に強く応える。

 ポップスから Arvo Part まで使った音楽には、急流の音も含まれており、ここでもロボット的な姿のイメージがある。それは、ひょうきんにエロチックなビーチボールナンバーを含む若井田の「Opera de Circus」(抜粋)を上演したCAGR(Choreography Art Gymnastics Rockets)の作品でも繰り返されている。

 疎外を語る列車と都市のイメージにもかかわらず北村は、「dred: hyperbolic zone」のビデオイメージよりも、ダンスにおいて、より多く語る事を持っている。

武術的しぐさの紹介がテープで流されたり、スクリーンで表示されたりしている中、ダンサーたちは、顔を繰り返し打つ肘と腕を、驚くほど近づけたままでいる。そのダンスの作風・持ち味は優美でなめらかであり、そのもともとの形からは驚くほど異なったものに変形されている。



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丹野賢一/NUMBERING MACHINE:mail@numberingmachine.com
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