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丹野賢一+山田うん合同ソロプロジェクト「SSW〜Short Solo Works〜」
2001年8月17日 愛知芸術文化センター小ホール(名古屋)
浜島嘉幸
◆去年七ツ寺に初登場したジャンル不明の「ダンサー」丹野賢一が、ちょっとかわいらしいコンテンポラリー・ダンサー山田うんを連れてふたたび名古屋にやってきた(8/17、『SSW』、芸文)。
丹野は3つの扮装で異なったキャラを表現、その「衣替え」の間に山田うんの方はスタイルの違ったダンス作品を発表するという、ちょっとヘンな構成。
ヘンというのは、丹野のイグアナふうの衣装がかなりヘンというのもあるが、衣装やメイクをまったく変え、動きもかなり変化させているのに、どこを切っても「やっぱり丹野」というのと、黒いスーツで一貫したマイム体操ふうダンスを展開するうんちゃんの方が作品の骨格=コンポジションをいちいち変えてくるのでぜんぜん違って見えるというのとがどこかでつながっているという不思議のこと。
様式=スタイルまで引用・シュミレート・リミックスするというのは、ポスト・モダニズムあるいはシュミレーショニズムの戦略の当然といえば当然出てくる帰結のひとつだし、それで現代的に「フラットに」(存在論的に薄っぺらい、あるいはヘン=狂っているということ)なのはいいとして、「自己同一性」があるかなしかにしたとしても、やっぱりというかかえって変わらないもの=自己同一なもの、あるいは「主体」がより強固にエグく表出されてしまう(そう見えてしまう)というのはどういうこと?
気になるのは田中泯ふうに風景(あるいは「磁場」)をまわりに作り体力の限りを尽くして「踊り」や「行為」を(観客へと)発散しているとしか思えない丹野のその動作や風景そのものが観客を拒絶している、観客から孤絶しているように見えること。
コンポジションがミニマルではっきりしていてべつに情感を表出しているわけではない(つまりモダンダンスくさくない)山田うんのダンスの方がまったく「親しげ」に見え、あたたかく客席に浸透して「(共同体的な)磁場を形成しているように見えること。
まあ、それぞれの出自的背景と展開・分節のプロセスの問題にすぎないともいえるけれども、このへんの交差に現代の風景があると考えてもいいのかもしれない。
私流にいえば、「プロセスの争異」が結果的に生成させざるをえない作品や上演が代理/表象しているように見える「(幻想としての)プロセスの争異」がこの『SSW』の構成の中にもかいま見ることができるということだろう。