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2001.6.23 SSW札幌公演
山崎弘三

SSW PHOTO  この日は、雨模様の多かった最近の札幌にしては珍しく、朝からジリジリと太陽が照りつけ、気温も30度近くまであがる、サッポロで言うところの真夏日であった。
 そんな札幌で"丹野賢一+山田 うん合同ソロプロジェクト『SSW-Short Solo Works』が行われるのは、JR琴似駅のすぐ脇にある"琴似日食倉庫コンカリーニョ"である。名前からも分かる様にこの会場は、レンガ造りの倉庫を改造してたてられた物であり、琴似と言う繁華街の影にひっそりと、異様なたたずまいを見せている。
 一歩、会場に足を踏み入れると、土壁がむき出しの空間をステージ及び客電により、全体的に照らし出しており、また、舞台下手側にある、客席から見てちょうど真正面にある出入り口が開け放たれて、そこからは、外の青々とした木々が生い茂る小さな庭が広がっており、そこで、札幌公演トップである、山田 うんと、山田の音を担当している足立智美が、まるで遊んでいるかのような光景が私達の目の中に飛び込んできた。ある種、異様ともとれるこの光景は、太陽と暗闇、現実と非現実、真と偽等と言った非常に対称的な事象のはざまに、このSSWを見に来た者を誘い込んでいるようにも見えた。これは、あくまでもコンカリーニョの会場の特性を活かして採用になったオープニングなのだろうが、丹野賢一と山田 うんという演歌とハードロックくらい違いのある2人(山田 うん談)で行われるSSWという公演を象徴的に示しているようにも感じた。

#1:『11月11日』  山田 うん

 と言うことで、先攻は山田 うんであった。
山田の音を担当する足立智美に続き、山田 うん本人が、その舞台にポッカリとあいた出入り口から入場してくることで、山田の1つ目の作品『11月11日』が始まった。
 山田は、その扉を閉め、下界を遮断し、ステージ中央にくると、ステージ上にランダムに何やら腰元のバッグから、大切そうに小さな箱上のものを並べはじめた。はじめは、何を並べているのか判別がつかなかったのだが、山田がバッグから、その小さな物を出し切りかけた頃、客席の方から無機質な声や音が、あちらこちらから聞こえはじめた。そこで、先に入場して来た足立及び、山田がステージに並べていた物が、カセットレコーダーであることに気付く。あちこちへ配置されたカセットからは、無秩序な言葉や、うめきや、口笛や、鼻歌までもが流れ出し、音の、言葉のカオスをつくり出していった。そんな、会場内に蔓延するカオスの隙間をすり抜けていくかのように、山田は、ミニマルに連続する動きをつなげながら動き始め、移動していった先で、正方形の光の中に閉じ込められてしまう。気持ちは、外へ向かおうとしているのだろうが、山田の動きは、その正方形の光の中でだけ激しさを増していく。
 これを見ていて、私は、現代の社会における風刺を見ているように感じた。近年、凄まじいまでに、情報化の波が私達の生活に浸透しはじめているのだが、そんな社会の中において、私達は常に情報の取捨選択を迫られている。そこに発生し続けている情報は、必要な人間にとっては必要であり、一方、不必要な人間にとっては、全く何の意味もそこに形成しない。ここでいうところ、山田を取り巻く声や音のカオスは、つまり情報であり、自分と言う正方形に照らし出された光におおわれた枠の中でのみ、その取捨選択が行われ続けられているのである。そこで、なんらかの取捨選択を行った山田は、吸い込まれるように、自身で並べたカセット群の方へ、足を向ける。自分で行った選択が間違っていたとしても、それを悟られまいとするためなのか、おどけているとも、反面びくびくしていることの裏返しともとれるような自己武装を含む足取りで、そのカセット達の間を縫うように歩いていく。そして、いまだ発信を止めない情報=カセットを自分のバッグにつめなおしていく。しかし、つめなおされたカセットは、バッグの中で無情にもブツンブツンと自動停止機能により、次々に鳴り止んでしまう。そんな状態で、その事態を望んでいたための安堵感なのか、それとも、予期せぬ結末を迎えてしまったことへの諦めともとれる姿で、山田は舞台中央にしばらく立ち尽くし、舞台を後にする。そんな複雑な姿が、非常に印象的で、この作品が私自身に面白くさせているように思える。

#2:『010-SKIN』  丹野 賢一

 続いて、暗転されたままの会場内に恐竜の泣き声のようなノイズが響き渡り、丹野作品の1つ目である『010-skin』が始まった。
 丹野の作品について書こうとした時に『008-Mirror』のパンフにも載っていたのだが、丹野自身『意味や感情や物語と言ったあらかじめ想定した事項の伝達ではなく、現場に存在している身体、もの、音、光、そしてそれらが引き起こす事態が人にダイレクトに訴えてしまうことに関心をよせとぃる』とあったり、このホームページのダイアリーにも書いてあったのだが、本人自身、作者の意図が分かりやすく伝わり過ぎることに対して、抵抗感を持っているようであり、ましてや、彼の作品に対して、ごたくを並べてしまうことなど、非常に嫌悪されてしまうのでは----と思いつつも書いてみようと思う。
 恐竜のようなノイズが鳴り響く中、ほとんど無照明に近い舞台上で、顔面までおおった白い衣装の丹野が、縦横無尽に滑り込んでいるのがぼんやりとだけ確認できる。
 まさに異形のキャラクターの登場である。そんな異形のキャラクターの動きをとおして、こんなことを考えてしまった。
 私達はふだん何気なく生活をしていく上で、意外と外的要因に振り回されてしまっていることが多いものであろう。そうではなく、自己に忠実に生きている人も確かにいるにはいるだろうが、朝、起きて、顔を洗い、歯を磨き、鏡の中の自分の姿を確認して、学校なり会社、つまり社会の中へと出かけていく。そして、その社会においても、もちろん自らの意志に基づいて、だれしも行動をしているのだが、もっと深く自己と言うものを掘り下げ、向き合った時に、社会という自分にとっての外的要因に対して、妥協を続け、我慢を重ねて、流されまくっているだけのちっぽけで醜いだけの自分の姿に愕然とすることがあるだろう。そして、大半の人間が、そんな自分の姿からは目を背け、自分を取り巻く外的要因により、ある意味、自分という虚像をつくり出してしまうのである。まさに、そうやって造り出されたものこそ、この作品で登場するキャラクターの影であり、本当の姿こそ丹野扮するところのキャラクターに他ならないのではないだろうか?しかも、それによりつくり出された虚像は、気付かぬうちにぶくぶくと本来の自分の姿からは、かけ離れて成長しはじめてしまう。そして、はたと気付いた時にはすでに遅く、慌てて本当の自分に直に触れ、確かめようとしても、ほとんど触れることさえできず、そんな本来の自分と、外的要因により作り上げてしまった自分という名の虚像の間に生じる矛盾という溝は、どこかへ押し込められ、握りつぶされてしまった本来の自分の欠片から流れ出る鮮血によってのみ埋められていると気付くのである。
 こんなことを書いてしまっている自分はどうなんだと、改めて考えさせられる作品である。

#3:『7月7日』  山田 うん

この作品については、公演終了後に山田本人による作品の説明と私の勝手な想像(妄想?)は、見事に食い違っていたのだが、ここでは、こんな見方があってもいいでしょ!ということで私なりの解釈で書いてみたいと思う。
 黒いスーツ姿で正装している山田が登場する。『7月7日』というタイトルからして、何か就職活動の真っ最中の女の子の姿に映った。深々と頭を下げて、きっと鏡の前で練習でもしているのであろう。そして、そのバックには、生活音。しかも、男の入浴しているらしき音が流れている。
 つまり、ここで山田が扮するところの女の子と、その風呂にはいっている男性とにおける恋人達の1シーンを切り取っているかの様な作品に思えてならないのである。
 就職活動で会社訪問に行こうとして、少し緊張状態にある彼女をしり目に、相手の彼は陽気にお出かけ前の入浴タイムなのである。一緒に外に出ようと約束でもしているためなのか、彼女は、そんな彼を待たねばならない。シャワーだけで済ましてもらえるものと許した彼の入浴。ところがマイペースな彼である、なんと湯舟にお湯をためはじめている音まで聞こえてくるではないか!もう、あまり時間もなく、ましてや緊張気味の彼女にとっては、どんどん些細なことが気になりはじめる。肩にゴミは着いていないか、腕時計は忘れていないか、履歴書の書き過ぎであろうか、しだいに気になりはじめる手首の動き。
 山田のミニマルチックな動きはどんどんデフォルメされて、見ている者の想像を膨らまさせる。
片や、悠々自適に入浴タイムを過ごす彼。彼もただ者ではない。鼻歌なんて可愛いもの、これでもか、これでもかと言わんばかしに、風呂場にピアニカまで持ち込むは、ザブンザブンと、ここまで来たらもう入浴と言うよりは、むしろ、子供の水遊びに近いモノが展開されていく。
 はたと気付けば今日は、7月7日。そう、七夕ではないか!! 七夕と言えば、織姫とひこ星が、2人の恋仲を引き裂かれ、年に一度あえると言う日ではないか。
 あんな彼の様子を聞きつつ、彼女は、そんなことを考え込んでしまう。自分達にも、そんなピュアでいられた時ってあったよね、こんなはずだったんだろうか? いや、違う、いや、違うと自問自答する彼女。
 クライマックスを迎えた彼の入浴も終わり、そろそろ出かけることができそうな彼女。
 でも、気になるんだよね、肩にゴミがついてないかって。やっぱり緊張しているのかしらと、彼女は出ていく。

 いやー、うんさん、ごめんなさい。こんな勝手なことばかり書いて....。

 #4:『011-DOT』  丹野 賢一

 10分間の休憩を挟み、後半は、丹野作品の『011-DOT』から始まった。
 ピンク地に黒の水玉のはいったエナメルの衣装を着て、顔までピンクに塗った丹野が登場し、一昔前のゲーム音楽を連想させるような音が響きだして始まるこの作品は、誰がなんと言っても非常にPOPな作品であった。
 私自身、丹野の作品は、昨年、JCDNの企画、『踊りにいくぜ!』で公演していた『009-COLLAR』と、今回、SSW公演で行われている3作品くらいしか観たことがないのだが、比較的、重めの作品の多い丹野の作品の中では、ずば抜けてPOPであり、誰もが素直に楽しめる作品であると思う。それは、今年1月のNY公演の際のNYタイムズ誌の記事からも伺えるであろう。
 あの丹野がここまでPOPな作品を創ってしまうというからには、きっと丹野本人は口外しないであろう作品意図などは、もっと全然違うところにあるような気がしてならない。
 しかし、作品の中盤から後半にかけて、きっちり丹野流に落とし前をつけてくる当たりはさすが、丹野賢一である。
 丹野の動きの魅力の一つには、おどろおどろしさの中の美意識があると思うのだが、この作品の後半当たりで見せるような、やたらと倒れ込む動きなど、きっと他の作品の中で同じことをしていても、決してPOPな動きなどとは思わないのだろうが、この作品の中では、そんな丹野独特の動きさえもPOPに見えてくるところが、この作品の非常に面白い面であろう。それゆえに、観ている者は、知らないうちにいつのまにか丹野ワールドへぐいぐいと引き込まれていくのである。
 きっと、確信犯である丹野本人は、このように面白いだの、POPでいいなどと書きまくっていると『あぁ、それはよかった。』と、ニヒルな笑みを浮かべて答えてくれるのであろうが、そんな感想にとどまらず、何か、個々人に考えずにはいられなくさせるのも丹野作品をさらに自由なものとし、魅力的なものにしている要因であろう。
 では、私がこの作品を観て感じたことは、先に行った『010-SKIN』と、テーマ的な部分において非常に近いのではないだろうかということである。つまり、連動企画もの(!?)?
 『010-SKIN』で書いた部分を読んでもらっても分かると思うが、『010-SKIN』では、本来の自分の姿と作られていった自分の姿の差異が、私的にはそのテーマであったと思っているのだが、ただし、その場合は、人間を全体的に捉えた見方なのである。一方、『011-DOT』では、それを人間の細胞レベルにまで持ってきて、創られている様に感じるのである。
 それゆえに、丹野の動きは、松本じろの音と同様に、非常にミニマルな動きから始まりだすのである。そして、本来の自分と作られた自分との差異を埋めるべく、その動きは、周りの細胞にも伝播していく。1つが2つになり、3つになり、4つになって、舞台上では、その様を照明をとてもうまく使って表現されていく。
 そして、その細胞本体の動きは、まるで何かと戦っているとでもいおうか、はたまた、自虐的ともとれなくないまでに激しさを増していく。
 それらの細胞の反乱、抵抗、暴発により流れ出た血こそが、『010-SKIN』で表された、本来の自分から、何かを必死に伝えるべくして溢れた鮮血の姿なのではなかったのだろうかと思えてならない。

#5:『8月15日』   山田 うん

 今回の札幌公演における山田 うんの作品の中で、最もスピーディーかつ山田がとる潔さの連続からくる、動きの大きさが非常に目立った作品であった。また、この作品では音楽にクラシカルな素材を大胆に取り入れてあり、足立智美による自作の楽器(?)達が、ただクラシカルな音楽を素材に使用した作品とは一線を画する効果を高めている。
 ここでの山田は、上半身裸で、ウサギのアップリケのはいったショートパンツ姿で登場する。----だから旧暦の十五夜なんですねー-----。音楽の効果もあるのだろうが、彼女は、私達観ている者を、まるでアニメのトムとジェリーの1シーンでも見ているかの様なコミカルかつ、ファンタジー溢れる世界に引き込んでくれる。やはり、月に映し出されるウサギをイメージしているためなのか照明は、スポットライトたった1つのみといういたってシンプルな構成で、山田の伸びやかな白い肢体を照らしだしていた。
 私達が月を見た時、映し出されるウサギは、常に静止しているものであるが、きっと動きだしたらこんな風なのかなとも思える動きが続く。そして、そこの世界では、決して無音ではなく、ウサギちゃんの生命線とも言えるクラシカルな音のほかに、宇宙線や電磁波などの障害的音の襲来にも度々遭遇する。
 しかし、なんていうのかなー、この作品って、私個人的には妙な重さを感じてしまうのである。それは私自身の暗闇&閉所恐怖症的な性質のみからくるものではなく、あんなにコミカルかつファンタジーな動きはしていても、何かとても重いテーマを伝えたいがために、それをカムフラージュするための動きにも見えるのである。
 札幌の地元独特のモノかも知れないが、結構、小さい子供も会場に足を運んでいたのだが、その中の女の子が、この作品の最後、暗転して山田の姿は消えたものの、まだ音楽が鳴り止んでいない時に『おわったー。』という声が、会場内に響いていたのだが、妙にこの作品の雰囲気とリンクしていたような気がしてならなかった。
 うーん、いろいろと思い起こしているのだが、私自身にはいまだ光のさす出口が見えない---。

#6:『012-RAG』   丹野 賢一

 暗転された中、客席に程近い場所に微かに光が当たり、音を担当している松本じろのギターを抱えている姿がぼんやりと浮かび、そのガットギターからアラビア音階を含んだメロディーが奏でられる。
 『012-RAG』の始まりである。
 しばらくして、麻製の衣装をまとい、よたよたと歩き回る丹野の姿がぼんやりとあらわれる。そして、立ち止まり、何かを探し求めているのか、絶望感とも悲愴感ともとれるような姿で、度々、天を仰ぐ丹野、何か大切なものでも失われていっているのか、はたまた、失われたものの隙間に侵入してくる異物質を振払おうとでもしているのか。
しだいに、丹野の動きもエスカレートしていき、照明の当たり具合により、丹野の体からは、何かが生み出されているのか、それとも、何かが引きちぎられ放出されているのか、衣装である麻がその化身となり、空中を浮遊しだす。
 この作品は、私の観たことのある、『009-COLLAR』、『010-SKIN』、『011-DOT』に比べ、松本の生ギターのためか、丹野の茶色の衣装から砂漠をイメージしてしまうためなのか、とにかく描こうとしている世界観が広いという印象を受けた。そう、観客の目の前にすーっと違う空間、そこにある舞台以上のスペース感をつくり出すのである。これは、先の山田の作品でも言えたことなのだが、やはり、ひとくちに空間をつくり出すといっても違うんだよなー、個性が---。では、なぜそのように感じるのかという要因を考えてみる。
1つは、先ほどから、何度も書いている、ギターの松本が奏でる音によるもの。もう1つは、丹野の動きが、動きがそこにあって、そこにストーリーがくるというそれではなく、ストーリーから生まれてきたような動きが、非常に多く含まれている作品であるということもその要因になっていると思う。
 何かを表現する際に、とても乱暴な言い方ではあるが、大きくわけて2通りの示し方があるように思う。点在した表現をあわせて1つの作品にしていく方法と、起承転結といったように、表現に連動性を持たせた場合である。
 点在している表現を組み立てていくのにも、順序はあるとは思っているのだが、009から011までの作品が丹野の場合それにあてはまると思う。見終わった後に、ドドドーッとその作品のそれぞれの表現が見ている者の頭の中で1つになっていくからである。
 一方、この作品では、後者の表現に連動性がある部類に入ると思う。それは、まるで、映画か何かを見ているように、私達、観客の目線は常に主人公である(?)丹野の姿を追いかけ、比較的、丹野自身の目線ととても近い位置で作品に接するからであろう。きっと、この作品に関して、私が非常にストーリー性が高い様な気にさせられるのは、そんな目線の高さ故なのだろうか?
 しかし、作品後半にかけて、思わぬ機材アクシデント。ヒートアップしてきた松本の演奏も生音しか出なくなったり、ラインにのったりとしつつも、丹野も松本もものともせず、作品を続けていた姿には、拍手、拍手。

 SSW札幌公演を見終わって

 山田 うんと丹野 賢一という2人のアーティストにより繰り広げられるこの空間は、part-1の冒頭でも少し触れたが、現実と非現実ということに対して非常に考えさせられてしまうものであったと思う。動き、表現を目撃した者は、非現実という世界に自然と誘導されていくものなのだが、このことは、映画や、小説、芝居など様々な表現メディアにおいてあてはまることだとは思うのだが、丹野の場合、外側のハード面においては、あきらかに非現実的であり、パッと見では、絶対こんなことはおこらないだろうというような世界へ連れていってくれる。一方、山田の場合、確実に非現実の世界へは誘導はしているのだが、見ている側には、いわゆる、現実とあまり変わらないハード面、衣装であったり、一瞬の動きであったり、山田本人が放つ雰囲気により、ある種の安心感を覚えるため、丹野のそれに比べると、見ている者をソフトに誘導していると思う。このように、ハード面では、非現実の丹野、現実の山田という構図が見えてくると思うのだが、その中身である精神的な部分であったり、メッセージ的なソフトの部分でいえば、この構図は逆転してしまう様な気にさせるのである。
 こうも切り口の違う2人の作品を交互に見ていくことで、自分にとって現実とはなんなのか?、今まで現実だと思っていたことが本当に自分にとっての現実なのか?、もしかして、非現実なんではないだろうかとさへ思えてしまう。
 知らず知らずのうちに自分が凝り固めてしまった既成概念に対して、いい意味で警鐘を鳴らしてもくれる、こんなに対称的な2つの個性を交互に見ていくということが、SSWという公演において、非常に大切なことであり、また、この公演を見た者はきっと、丹野 賢一と山田 うんという単体としてではなく、それぞれの頭の中でその6つの作品がミックスされて、ひとりひとりのSSWになっていけるだけの遊びの部分というか、自由さがあるようにも感じた。 (敬称、略)

fin.


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